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ぜいたくな過去

チルチンびと72号

村松友視『時代屋の女房』は、時代屋という古道具屋を舞台にした小説である。彼がこの作品で、直木賞をうけたとき、私はすぐ、受賞者の記者会見場である、東京会館へ行った。新聞記者のインタビューが終わると、彼は、立っていた私のところへ、まっすぐ歩いてきて「なんだよォ」と肩を押した。それは、こっちの言うことだぜ。お互い、喜びを交わすには、これで十分だった。

この小説のなかの二つの言葉が記憶にある。「品物じゃなくて時代を売る、それで時代屋っていうんじゃないの」という女のセリフ。「過去の時間まで引き取っちゃあわるいからなあ」という古道具店主のつぶやき。

 『チルチンびと』72号(6月11日発売)の特集は「古き美を愛おしむ暮らし」である。たくさんの長閑な゛時代゛とぜいたくな゛過去の時間゛が、その誌面にあふれている。


はつなつのみほとけ

みほとけの
うつらまなこに いにしへの
やまとくにはら
かすみてあるらし

ワセダの會津八一記念博物館へ行った。『館仏三昧』展(六月十二日まで)。博物館蔵の仏 像と、會津八一の仏像を詠んだ歌と書のコラボレーション。冒頭の書には、香薬師を拝 してと題して収められた歌、と解説がある。
またつぎの仏像の前へ。そして、つぎの歌の書へ。こころが洗われる、とは、こういう ことか、と思う。見終えて、外へ出る。五月の休日。快晴。薫風。いやなことは、みな 忘れた。

はつなつの
かせとなりぬと
みほとけは
をゆひのうれに
ほのしらすらし

をゆひのうれ、は小指のこと。そよ吹く初夏の風を感じる清々しい作品と、解説にあっ た。

館仏三昧展

 


ハンバーガー

ハンバーガー

朝から、ずっとゲラを読んでいる。『チルチンびと』夏号は、校了間近。

昼食のときは、だから、ゲラとは調子のちがった本を持って、でる。今日は、近くに置いてあった『おおきなかぶ、むずかしいアボカド』(村上春樹)です。ハンバーガー屋さんIに入り、注文して、本を読みだして、テヘッと思いましたね。なぜって、「ハンバーガー」というタイトルが、ぱっと出てきたから。こういう話でした。

—- ホノルルのスーパーマーケットの駐車場で、一人のホームレスとおぼしき中年男が言う。「すみませんが、とてもお腹が減って、ハンバーガーが食べたいので一ドルくれませんか?」目的と金額をそこまではっきり限定して言う、そのオリジナルな訴え方に感心して、求めに応じて一ドルをさしだす。 —-

読みながら、ハンバーガーを食べる。パンのふっくらしたカンジ。野菜と肉のここちよい歯ごたえ。口の中にひろがる味。おいしい。しかし、困ったことに、いかにも舞台が揃いすぎた。私は、すっかり、中年のホームレス男になった気分、なんですよ。


あなたをプレス

プレミアムドラマ『伊丹十三と宮本信子』を見た。伊丹さんは、懐かしい人である。

お宅へ電話をする。「ハイ、イタミです。遊びに、いらっしゃいませんか」。行く。「ちょっと、出ましょう」と、そばやへ。もりそばと酒。そして、ビリヤードへ。そして、本屋へ。そして、珈琲屋へ。それは、ステキに退屈な午後だった。

その番組は、宮本さんが伊丹さんを語り、夫婦の再現ドラマが挿入される。ドラマのなかで、うつ伏せに寝ている伊丹さんの足に、宮本さんがアイロンをかけるシーンがあった。私は驚いた。いかにも、気持ちよさそうに見えた。何人かの友人に話した。そのうちの1人が、こう、言った。

「あ、それ、この間ハワイでやったホット・ストーン・マッサージだ。温かくしたコブシ大のすべすべした平らな石を、おねえさんが、絶妙の力加減で、からだの上を滑らせたり、一か所を押したりする。あまりの気持ちよさに、いつの間にか、寝ちゃった。それのアイロン版ね。健康雑誌なんかで、アイロン健康法とかすると、流行るかも。命の洗濯という言葉もあるし、さ」

アイロン


五月五日

粽

この時期になると、きまって流れる『背くらべ』という歌が好きだ、と作家の山口瞳さんは、エッセイに書いた。
(どうか、歌を思い出していただきたい)
柱のきずは、という出だしが、意表を突いて、いい。おととしの、というのが、懐旧の情があって、いい。粽(ちまき)たべたべ、というあたりに、お兄さんのお人よしという人柄が出ていて、いい。羽織の紐のたけ、というのが、具体的で、かつ、誇張があって、いい。— というのである。
そして、この歌は、文章の規範である。意表を突く、具体的、誇張、快い感傷。すべからく、文章は、こうありたい。— というのである。
毎年、五月五日になると、私は、この歌を聞き、この山口さんのエッセイを思い出す。そして、山口さんの文章こそ、意表を突き、具体的、誇張、快い感傷がある。ブログの文章も、そうでありたい、と思うのだ。
ここに付ける写真を粽にしたいと、あちこち探した。柏餅に比べると意外に見かけない。うちの近くの和菓子屋にあった。三本束、1260円だった。


家具のいろいろ

塩見さん 地域主義工務店の会

「 クローゼットは、日本では、あまり受け入れられないんですね。なぜか。日本人は、これを衣類を収納する場所だと思っている。例えば、ヨーロッパの人たちにとっては、衣類の仮置き場なんですね。外出するとき、ちょっとひっかけるコートなどをいれておく。ですから、これを収納家具だと考えると、ムリがある。せいぜい、5、6枚しか並べられないですから。—- 最近は、でっかいテーブルに憧れる人が多い。でも、使っているうちに後悔なさる。ジャマなのよ、と言うんですね。 —- ソファ、これは、ちょっと横になってくつろぐもの。座って、飲み食いするものじゃない。ところが、ソファの正面に大きなテレビ。これで、完結しているんですね、いまは。 —-なんにもないところに、ぽつんとひとつ、家具のあるのがフツーなんですよ。そう、絵を掛けるように、家具を置くのが—- 」

過日ひらかれた『チルチンびと「地域主義工務店」の会』東京定例会で、塩見和彦氏(「古道具屋の西洋見聞録」でおなじみ)は、こんな話をした。

人もまた、なにもないところに、ぽつんとひとりいるのが、いいのではないか。人も、家具かもしれない。話を聞いて、そう思った。


西荻窪散歩 ほろ苦篇

西荻窪 喫茶店

 『チルチンびと』夏号の取材に同行して、西荻窪界隈を歩いている。
 ひと休み。喫茶店へということになり、「どんぐり舎」(写真)へ。壁に貼られた黄ばんだメニュ、コーヒーほろ苦、酸味–から、ほろ苦 480円を注文。
 生まれては消えるコーヒー屋さんも多いなか、この一軒家のような佇まいに魅かれるファンは絶えないようだ。消えた店のひとつに、Gというアメリカ人がはじめたカフェがある。ビールは瓶だけがポンと卓に置かれ、コーヒーには゛お冷や゛などついてこない。万事、殺風景で、それが゛アメリカ風゛なのか、なかなかよかった。馴染みになった。勘定を済ませて帰り、「ハヴ ア ナイスデイ」と、彼は、いつもいった。あるとき、「日本語の゛じゃあ、また゛というのは、英語でなんというのか」と尋ねると「ハヴ ア ナイスデイ」と答えた。
 店は、二年ほどで閉店した。彼は、いま、どこでなにをしているのだろう。この店の思い出は、ほろ苦い。そういえば、私の思い出は、コーヒー同様、ほろ苦か酸味のどちらかだ。


西荻窪散歩・カツ丼篇

 『チルチンびと』夏号の取材に同行して、西荻窪界隈を歩いている。この日は、午前中は暖かかったのに、午後は俄か雨が降り、夕方、風が強く吹いて寒くなった。
 どうしたって、夕食はゲンキの出るものをと、北口の坂本屋へ行く。狙いは、カツ丼である。この店は、ラーメンあり、オムライスあり、ソース焼きそばありだけれど、人気は、カツ丼だ。かの美味評論家Y氏も、ここのカツ丼を絶賛、店に、「西荻窪の味 ! 東京の味 ! 坂本屋のカツ丼 !」という色紙を寄せている。時分時には、行列ができる。
 運よく空席があり、カツ丼(750円)を注文する。そして、近々、出産予定の仲間のKさんの話になった。Kさんは「こどもを産んだら、ビールとカツ丼だ ! 」と宣言したという。まるで労働者のような。以前、あるエッセイストに出産体験を聞いたとき、彼女は「潜水艦が、からだから出ていくようだった」と語ったことを思い出す。たしかに、出産は大仕事に違いない。それを終えたら、飲むぞ、食べるぞという気迫が十分に伝わってくる。
 運ばれてきた、素朴で、おいしいカツ丼を食べながら、無事の出産を祈り、少し、しんみりした。

カツ丼


承前・西荻窪散歩

 『チルチンびと』夏号の取材に同行して、西荻窪を歩いている。同行ったって、ナニ、道案内みたいなものだ。
 このあたりに暮らしている方なら、おわかりだろうけど、店として目立つのは、喫茶店、カレー屋、アンティークショップである。
 カフェなんていう軽いものでなく、木造の築何年というカンジの喫茶店が、いくつもある。インド風だったり、欧風だったり、店の横を通ると、プンとカレーライスの香りの漂う道があちこちにある。アンティーク関係は、古本屋さんを加えれば、70軒はあるだろう。こういう店模様は、神田神保町と、なぜかよく似ている。
 植物学者のY先生の話によると、忽然と海のなかに島が誕生したあと、そのハダカの島を緑にそめていくための種子は、鳥と波と風が運んでくるのだという。西荻窪の町を歩いていると、古くからのどっしりした店、開店したばかりのウイウイしい店といろいろで、それぞれの貌を持つ。店というのも、ひょっとしたら、鳥や波や風が、あちこちから運んできた種子から、生まれるのかもしれない。

西荻窪 MAP


セツ・モードセミナー

セツモードセミナー

 この゛広場゛の制作スタッフのМさんと、初めて会って話したとき、彼女は「わたし、セツに通っていました」と言った。その途端、あの学校の風景が目に浮かんだ。校舎脇の階段。休み時間の賑わい。聞こえてくるセツ先生の大きな声。あの雰囲気のなかで育ったひとが始める仕事なら、手伝わないわけにいかない。
 私は、絵を描くのは苦手だったけれど、学校には、よく遊びに行った。おかげで、たくさんの「才能」と知り合った。みんな、気持ちのいい人ばかりだった。雑誌の編集部にいたとき、若い人がイラストを持って、訪ねてきた。セツの生徒だとわかると、私はかならず喫茶店に誘って、学校の話をした。そして、たくさんの若者たちと知り合った。— そんなことを思い出したのは、「長沢節さんが残したもの」(『天然生活』4月号)を読んだからだ。その記事で、セツ先生のよきパートナーだった星信郎先生が、話している。


 「生活全般において、美意識をもって生きるということを、身を挺して教えてくれた人だったね。人は生まれてきてだれに出会うかで人生が決まるところがあると思うんだよ。そういう意味で、僕たちが節先生に会えたのは、とても大切なことだったんだよ」