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続・夏、涼しく

日本の夏をテーマにビブリオバトル

 

『チルチンびと』84号の特集〈夏涼しく、冬暖かい木の家〉にちなんで、日本の夏をテーマにビブリオバトル、納涼読書会。の続編です。

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K君。なんだかみんな、食べる話ばかりだな。ぼくは、俳句です。40余年、俳句と親しんだ俳優・小沢昭一『俳句で綴る  変哲半生記』(岩波書店)。変哲は、俳号。その本で、夏の句を楽しみませんか。どれも独特のいい味でしょう。〈手のなかの散歩の土産てんとう虫〉〈まず子供とびだす夕立一過かな〉〈風という風はこの風今朝の風〉。

Aさん。昔々のベストセラー『おばあさんの知恵袋・続』(桑井いね・文春文庫)を。「夏の暮らし」の章を読むと、風呂敷の柄にも、夏の装いがあったという話。〈何かを織り込んだ絽で、撫子、朝顔、秋草なんかが染めてありました。こうして、みんなで心をこめて季節感を盛り込み、涼し気にと演出して暑さを凌いだものでございます。〉いかにも、おばあさんの、やさしさです。

D君。『寺田寅彦随筆集   第五巻』(小宮豊隆編・岩波文庫)には、日本人を育ててきた気候は温帯であるとして、こうあるよ。〈温帯における季節の交代、天気の変化は人間の知恵を養成する。週期的あるいは非週期的に複雑な変化の相貌を現わす環境に適応するためには人間は不断の注意と多様なくふうを要求されるからである。〉そうだ。日本人の知恵は日本の季節から生まれたのだ。一同、ナットク、お開きとなった。
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『チルチンびと』84号〈特集・夏涼しく、冬暖かい木の家 ―  風土に寄り添う住まいと暮らし〉は、6月11日発売です。

 


夏、涼しく

ビブリオバトル

『チルチンびと』84号の特集「夏涼しく、冬暖かい木の家」にちなんで、〈日本の夏〉をテーマにビブリオバトル、あるいは、納涼読書会。

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A君。〈冷房も何もない、むかしの盛夏に、私たちをほっとさせてくれるものは、何といっても緑蔭と風と、そして氷水だった。〉というのは、池波正太郎『江戸の味を食べたくなって』(新潮文庫)。いいでしょう。この、ほっとさせてくれることを味わうのが、人生じゃないですか。氷あずきが七銭で、子どもには高いので、駄菓子屋で、餡こ玉を一銭で買い三銭の氷水にまぜて食べた話も。いいんだなあ。

M君。あ、ぼくも、氷ですよ。伊丹十三『女たちよ !』(文藝春秋)の「ナガ」の章から。〈高校の頃、私たちは氷のことを「ナガ」と呼んでいた。学校の近くの氷屋の旗が、氷という字の点の打ち方を間違って「永」という字になっていたのである。〉そんな旗の下で、イチゴやレモンやメロンの氷をアルミのスプーンで食べる。これ、夏の風景です。

Sさん。夏はカレーでしょ。で、カレーといえば、安西水丸。『村上朝日堂』(村上春樹と共著・新潮文庫)でも、カレーライスの話が、出てきます。〈ぼくにもしも最後の晩餐がゆるされるのだったら迷うことなく注文する。カレーライス、赤い西瓜をひと切れ、そして冷たい水をグラスで一杯。〉カレー、西瓜、冷たい水。これぞ、夏の3点セット。

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『チルチンびと』84号「特集・夏涼しく、冬暖かい木の家  ― 風土に寄り添う住まいと暮らし」は、6月11日発売です。

 


唐揚げ考現学

唐揚げ

 

テレビ『久米書店』に、『唐揚げのすべて』の著者、安久鉄兵さんが登場した。

唐揚げは和食である、という話。あなたは、唐揚げと書くか、空揚げと書くか。新聞の表記は、空揚げで統一されている。どうして新聞では、唐揚げでなく、空揚げと書くのか、と日本新聞協会に問い合わせたが、理由は分からなかった。ある国文学者は、唐揚げと書くと、中国のルーツと思われるから、空揚げと書くべし、と言ったという話。唐揚げにレモンをやたらかけたがるひとは、イヤですね、という話。 オイシイ店は、どこかという話。……  賑やかだった。

そのうちに、読んでみたくなり、買って読んでいるうちに、唐揚げが食べたくなった。放送のなかで、久米宏さんが「『とことん!  とんかつ道』という本も、以前出たし、中公新書ラクレは、揚げものが好きですね」と言った。これは、皮肉だったろうか。そういえば、いま、食べた唐揚げも、皮と肉だった。

 


住いのこと

山口瞳さん

 

「住ひのことでは、一時思ひ屈した。」
これは小説の最初の一行ということでは私の知るかぎりでは一番うまいと思っている永井龍男さんの『そばやまで』という小説の書き出しの文章である。

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山口瞳さんは、エッセイ「住いのこと」で、こう書いた。そしてこのあとに、こんなふうに、続けている。

私よりずっと若い人で文章を志している人たちにこの一行のもっているノッピキナラヌ感じを味わっていただきたいとは思っている。この一行はこれより長くてもいけないし、これをさらに圧縮することは不可能である。
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山口さんは、住いについて、たくさんの文章を遺したが、これは、その初期のものだ。このあと、家を壊し新築し、やがて「変奇館」へとつながるのである。そして、息子の正介さんが、その思いを、いま、つなぐのである。

(連載「変奇館、その後 ― 山口瞳の文化遺産」は、ココからごらんいただけます)


愛川欽也さんの快挙

先日亡くなった愛川欽也さんについて、こういう記事があった。

〈愛川欽也は生涯に八本の映画を撮った。監督を務めただけではない。製作も脚本も、音楽も、そして主演さえも一人で務めた。これは映画史では、チャプリン以来の快挙である。〉(『東京新聞』“大波小波”)

六作目の映画『荷風はこんな男じゃない』の撮影風景を見たことがある。荷風といえば、浅草、ストリップということで、それは、いまは使われていない映画館を、ストリップ劇場に仕立てて、行われた。私は、エンあって、そこに行った。愛川さんの独特の声は、撮影中も休憩中も、どこにいても、よく聞こえた。

追って「思い出展示会」がひらかれるということだが、それにさきがけて、台本と撮影風景(左下に、愛川さんが見える)を、ごらんいただきます。


吉田桂ニ賞と芥川賞

吉田桂ニ賞

あれは、どなたでしたか。吉田桂ニ賞は.、文学でいうと、芥川賞ですかね、といった方が、いたのである。昨年7月4日。第一回吉田桂ニ賞の授賞式がおこなわれた。その会場で、だった。それから、やがて一年になる。

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そういえば、芥川龍之介は、生まれて最初の記憶は、大工仕事だと、書いている。
〈僕の記憶の始まりは数え年の四つの時のことである。と言っても大した記憶ではない。唯広さんと言う大工が一人、梯子か何かに乗ったまま玄能で天井を叩いている。天井からはぱっぱっと埃が出る  ー  そんな光景を覚えているのである。〉(『芥川龍之介随筆集』岩波文庫)
……

4月27日。第二回吉田桂ニ賞の選考委員会が風土社で、ひらかれた。吉田桂ニ、平良敬一、内田祥哉、三井所清典、益子義広、横内敏人と6氏の選考委員 。議論は熱く進み、第一次審査を終了。受賞作は、第二次審査を経て、後日、発表される。

吉田桂ニ賞と芥川賞


山口小夜子・陰翳礼讃・羊羹

山口小夜子  未来を着る人

『山口小夜子  未来を着る人』へ行く(東京都現代美術館・ 6月28日まで)。黒と白の世界を堪能した。うしろで観ていた女のひとの「やっぱり、陰翳礼讃ね」という声が聞こえた。見ると、そのひとも黒い服を着ていた。そうなんだ。うちに帰って『陰翳礼讃』を読まないといけないような気がしてきた。

谷崎潤一郎『陰翳礼讃』(中公文庫)を読む。〈かつて漱石先生は「草枕」の中で羊羹の色を讃美しておられたことがあったが、そう云えばあの色などはやはり瞑想的ではないか。〉という箇所がある。そして、つづく。〈人はあの冷たく滑かなものを口中にふくむ時、あたかも室内の暗黒が一箇の甘い塊になって舌の先で融けるのを感じ、ほんとうはそう旨くない羊羹でも、味に異様な深みが添わるように思う。〉

読んでいるうちに、今度は羊羹を食べたい気分になって、明日、買いに行こうと思った。

 


大工さんになりたい!

4月15日。久しぶり青空の東京・神田。「チルチンびと地域主義工務店の会」総会が、ひらかれた。会議、セミナーのあと、建築家の方も出席して、懇親会。いつもより、明るく賑やかに思えたのは、何日か前に読んだ新聞記事のせいだろうか。それは、ランドセルなどの素材、人工皮革メーカー「クラレ」が、この春、小学一年生になった子どもたちに、将来つきたい職業をアンケート。その男の子篇の順位は、こうだった。

1  スポーツ選手
2  警察官
3  運転手、運転士
4  消防レスキュー隊
5  TVアニメキャラクター
大工、職人
7  ケーキ屋、パン屋
8  医師
9  パイロット
10  研究者
11  芸能人、歌手、モデル
12  料理人
13  自営業
14  おもちゃ屋
15  建築家
15  宇宙飛行士


一年前の調査では、大工、職人は9位。建築家は20位だった。どうです、この躍進ぶり。

なぜ、こんなに人気がでたんですかねえ、とご当人たちに、うかがおうと思ったら、みなさん、ゴキゲンでお帰りのあとだった。

 

 

 


サヨナラ 柏水堂

柏水堂

神保町の洋菓子店・柏水堂が、店を閉じた。

貼り紙には、「突然ではございますが   三月末日を以って   柏水堂は閉店いたしました」という、店主のご挨拶がある。オヤ、という顔で立ち止まる人、買い物に来て戸惑う人。私は、この店の前を、しょっちゅう通る。ウィンドウをのぞいて、カステラの詰め合わせの袋を探す。それは、正式にはなんというのか知らないが、いろいろなケーキの端切れを袋に集めたものだ。300 円くらいだったと思う。人気があるのか、品数が少ないのか、めったにお目にかかれない。むろん、その他にも、シュークリームやクッキーなど、やさしい味を楽しんだ。閉店の事情はわからないけれど、とても、寂しい気がする。春には、苦い別れが似合うのだろうか。いま、神保町は、靖国神社方面への花見客の流れがあわただしい。

咲く花に散る花にいのちまかせたる    —  という久保田万太郎の句が、なんとなく、浮かんで消えた。


金子國義さん

婦人公論

その昔。この表紙の連載が始まるころ。金子さんは、四ッ谷のアパートに住んでいた。訪ねる前に「ぼくの部屋のドアは赤いから、すぐわかりますよ」と言われた。どうして、あの部屋だけ、赤く塗ることができたのだろう。扉を開けると、真っ暗な部屋のなかから、金子さんは出てきた。

表紙の絵を、締め切りの日に受け取りにいくと、たいてい「徹夜で描きました」と言いながら、奥の暗い部屋のなかから、絵をもってあらわれた。絵は、まだ乾いていない。部屋中、絵の具のにおいがした。それを、印刷所に渡し、校正刷りが出ると、また訪ねた。色の調子がわるいと、あっという間に、眉のあたりが、曇った。怒るというより、悲しそうな口調で「ぼくのブルーには、黄色が入っているんです」とか「この赤は、血の色で」と、注文をした。

独特の絵は、表紙として、極端に二通りの反応に分かれた。顔が、コワイと言うひとがいた。雑誌は買ったけれど、カバーをかけて読んでいる、という。一方、個性的で好き、この雑誌にぴったりだ、という声も多かった。当時、雑誌はぐんぐん売れ、部数を伸ばした。そのことと、あの表紙と無関係であったとは思えない。

亡くなった知らせを聞いたあと、神保町にある、金子さんの店「ひぐらし」に行ってみた。雨のなか、降りているシャッターの前に、花束がみっつ供えてあった。