田園まさに荒れなんとす

父の愛読者という方がお見えになるという。
 まことに申し訳なく、僕の我が儘なのだが、通常はファンの方のご来訪や見学はお断りしている。現在の変奇館がいまだに生活の場だからにほかならない。
 はじめてお目にかかるような方のためにどうしていいか分らない。いずれにしても、それなりの掃除をしておかなければならないだろう。いつものように、そこら中に脱ぎ捨てた衣類や洗濯物がぶら下がっている状態では如何ともしがたい。…

終の住処は、至近の距離

高高校の二年から三年にかけて、およそ一年強、変奇館から徒歩二分程度のマンションに住んでいた。
 マンションとは名ばかりで、都営団地というか、六畳二間に三畳間、バストイレと台所といった間取りで、鉄筋コンクリートの三階建て、一階はそれぞれ十戸ほどだっただろうか。
 当時の正式名称はグリーン・マンションという。我が家が入居したときは三棟だったが、そののち同じ設計で三棟か四棟が増築され、大手の企業の社員寮になっていた。…

木を伐る奴は嫌な奴

男男性自身』シリーズの第35回目は「イヤな奴」と題して、いい奴と嫌な奴の類型を上げている。少し長くなるが引用してみる。
- まず、学生なら、成績がわるくてもいいから一所懸命に勉強してる奴、勉強しようとしてる奴が、いい奴であると彼は思った。(中略)それなら、嫌な奴は、というときに咄嗟に“木を伐る奴”というイメージが浮かんだという。-(『イヤな奴』より。…

隣のおじいちゃま

作家の子孫がその作家についての思い出を語るという『週刊朝日』(七月十五日号)の『作家の子孫』は志賀直哉のお孫さんである山田裕さんの回であった。
 その文中にある、「おじいちゃまは私が大学2年のときまで存命でした」という個所を読んで、僕は我が意を得たりと膝を打った。

 山田さんは学習院大学卒業で70歳だから僕よりも一つ若い。おそらくは、生まれ育ちも東京だろう。僕は兼ねてから東京のハイソサイティー、山の手の良家の子女は祖父母を“おじいちゃま、おばあちゃま”。両親を“おとうちゃま、おかあちゃま”また、兄弟を“おにいちゃま”などと、“さま”や“さん、ちゃん”ではなく、“ちゃま”と呼ぶと思っていた。…

田沼武能さんのこと

今年(2022年) の六月一日、写真家の田沼武能さんが93歳で亡くなられた。
 父、瞳との親交は長く、洋酒の寿屋(現・サントリー)の宣伝部に瞳が勤めていたころ、よく仕事を依頼していた。トリスの新聞広告写真に自ら、休日のサラリーマン役でモデルになり、その子供役で僕も被写体となった。このときの写真は直木賞受賞作『江分利満氏の優雅な生活』の口絵写真ともなっているから、ご存じの方も多いだろう。…

たとえ、戦争がはじまっても

今年に入ってから、少しほったらかしてあった庭の手入れをしようと思っている。
 録画しておいたドキュメンタリーを観ることが多い。海外旅行の番組が主なのだが、動植物関係も好きだ。特にイングリッシュ・ガーデンの紹介番組は興味深い。フランス式の幾何学的な庭園造りでもなく、また和式の庭造りとも違う。人工的であるが種々雑多な植物を葉の色、花の色、葉の形と、それぞれのコントラストで選んだり、または花の色を統一したりする。自然を模倣しているようでもあり、アジアのものとアフリカのものを混在させたりするから、自由ともいえる。

 僕は英国式廃園造り、といったような様式に憧れるが、できるだけ日本の植物で統一したいと思っている。原種に近いものがいいのだが、今は手に入れるのも大変だろう。…

定年後の飲み友達

社会人が友を語る新聞コラムに、「会長を辞任したと友人たちにハガキで連絡したら、新しい飲み友達を探さなければ、という返事が来た」とあった。
 少し疑問に思ったのだが、それと同時になるほどなあ、と何得するところもあった。
 せんだって、駅前の行きつけの店で飲んでいると、数十年にわたる常連客がやってきて、今月限りでこられなくなります、と言う。 …

独り暮らしを書いたのに

友人たちの間で、今年の僕の年賀状が話題になっているらしい。
再三、独居老人といっているのに、誰かと一緒に住むようになったのではないかというのだ。
 年賀状には単に、あけましておめでとう、とか、賀正などとシンプルにせず、最近の生活をエッセイ風に書いている。年に数度しか会わない人、あるいはもう何年も会っていない人に近況を伝えたい、という意味で、かなりの文字数を書くことにしている。…

池のポンプが壊れた

国立に引っ越してきたとき、庭に差し渡し一メートル半ばかりの瓢箪池があった。生き物が好きな僕は、さっそく金魚を買ってきて、その池に放した。何度もふれたように、両親は生き物の飼育を好まず、犬猫を飼うことは許されなかった。しかし、辛うじて魚類ならば、いいだろうということになったのだった。後年、高校生になった僕は、なんと大それたことに錦鯉の養殖を庭の一角で始めようとして、五メートル四方もある池を造ってもらった。だが、この計画はプールほどもある池が何面もないとできないことが分かり、頓挫してしまう。

 変奇館を新築するときに、半地下部分に沿って、幅一メートル半、長さ六メートルほどの池を併設してもらった。これにより、半地下が直接、地面と接することがなくなり、それなりに解放感を得たのが、結果としては良かったのではないかと思っている。この池には、水中に沈めて使う二台の濾過器が設置してあり、水質を維持している。昔は情熱もあり、月に一度はカイボリをして、デッキブラシで池の清掃をしていた。例の最近、テレビで評判の「池の水、全部抜いた」である。しかし、近年は寄る年波もあり、半年に一度ほどに減ってきてしまっていたのだ。せんだって、ふと池を見ると、鯉が池の底で静かに漂っている。通常は盛んに泳ぎ回り、僕が近づくと餌を求めて寄ってくるのだが。よく見ると、池の水が動いていない。浄化槽が停まっているのだ。この浄化槽は、簡単な水車で水を吸い上げ、濾過細菌が付着したネットの中を通過させることにより、水中のアンモニアを無害なものに替える仕掛けになっている。尾籠な話だが、池の鯉は自分の排泄物を薄めた水の中で活きていることになる。この毒素をそのままにしておくと、たちまち死に至る。緊急事態である。取り敢えず、水を全て抜いて、新しい水を継ぎ足す。これで多少は命を長らえるはずだが、濾過器は復旧するだろうか。

 幸い、一台は水替えをしただけで動き出した。水中にあるプロペラはモーターの軸と直接、ギア等で連結しているわけではなく、それぞれに磁石が埋め込まれていて、非接触で駆動しているのだ。トルクは非常に弱く、ちょっとした異物が噛んでも停まってしまう。だいたいは落ち葉か小枝かコケなので、朽ちてしまえば溶けてしまい、トルクが復旧するものなのだ。今回も、幸い、そういうことだったのだろう。ひとまずは安心した。…

牛脂を巡る、あれやらこれやら

我が家が国立に引っ越してきたのは真冬だった。それが時期的によかったかもしれないが、さして広くない庭に野鳥が飛来することがわかった。最初におどろいたのはアトリだった。都会ではついぞおめにかかったことがないので、自然観察が好きだった僕は欣喜雀躍した。三十歳になり本格的に野鳥を呼び寄せようと思い立ち、父が雑木林と呼んでいた木々の枝に蜜柑やリンゴを差し、プラスティックのバード・フィーダーには余った米などを入れて野鳥を待った。オナガ、ムクドリ、ヒヨドリが争って果物をついばむと、雀の大群があっと言う間に米を食べ尽くしてしまう。

 特に穀類は粉体力学の作用により、鳥が一粒ついばむと、それにつられて全てが流れ落ちてしまうのだった。地面に落ちたものをついばむわけだから、鳥にとっては痛痒がないものの、どうも面白くない。そこで、ものの本を読んでみると牛の脂身がどんな鳥も喜ぶと出ていた。果物や穀類はやめて、駅前の肉屋さんで、冬になると牛脂を分けてもらっていた。コンラン・ショップに手頃な金網製のバード・フィーダーがあり、数切れずつの牛脂を入れておくと、シジュウカラなどが少しずつついばむので一冬、それで観察を楽しむことができた。メジロやシジュウカラが集まっていると警戒心が強いと思われるアオジなども、時折姿を現す。
 ところが、困ったことが出来した。肉屋さんが後継者不足で閉店してしまったのだ。…

変奇館の正月

父、山口瞳が元気であったころ、変奇館の正月は暮れの買い出しから始まった。築地の懇意にしてもらっている寿司屋のご主人の案内で築地の場内でマグロのさくやタコ、玉子焼きなどを仕入れるのだ。当時はまだシロウトが場内には入れない、などといわれていた頃だった。早朝の仕入れに同行するのは大変で、後にはお昼過ぎに松竹本社裏のお店に出向いて受け取ることになった。このときばかりは僕も年越しの寿司をいただくことになる。

 大晦日になると、金沢の料亭から、浜であがった最上級の越前蟹数杯が届く。同じく金沢の老舗バー、倫敦屋さんからは新鮮なブリが二匹ほど届く。すでに東北地方のファンから数尾の荒巻ジャケが届いていて、意外にも料理が上手い母・治子がヒズナマスを造る。同時に三田の大坂屋さんの餡子を使って大量のお汁粉を造っている。
 新宿区役所裏にあったバーのマスターが大鍋一杯、三十人前はありそうなカレーを台所に運び込む。駅前商店街にあった個人経営のお肉屋さんが300グラムのサーロインとヒレステーキを各十枚、持ってきてくれる。これを焼くのは僕の担当だ。およそ二十年にわたり、シロウトでこれだけのステーキを焼いたのは僕ぐらいだろうか。…

自転車を漕ぐ

父、山口瞳は色紙に「自転車を漕ぐというのはおかしいと吉野秀雄先生が言った」と書くことがあった。吉野先生は日本を代表する歌人で万葉集の研究家でもあった。若かりし頃、鎌倉アカデミアに学んだ瞳は吉野先生の薫陶を受けることになる。正しい日本語を学んでいる吉野先生は漕ぐというのは櫓を漕ぐというように前後運動、あるいは上下運動を指す言葉であり、回転運動である自転車のペダルを回す動きを表現するのには適さない、とお考えだったのだろう。さんずいというところも陸上のものである自転車にそぐわない。

 また、これも日本語に敏感な瞳だから、授業中の先生の言葉を憶えていたのだろう。
 僕は長いこと自転車に乗れなかった。生家の前が繁華な都電通りだったので、祖母が危ないからといって許してくれなかったのだ。 …