独り暮らしを書いたのに

友人たちの間で、今年の僕の年賀状が話題になっているらしい。
再三、独居老人といっているのに、誰かと一緒に住むようになったのではないかというのだ。
 年賀状には単に、あけましておめでとう、とか、賀正などとシンプルにせず、最近の生活をエッセイ風に書いている。年に数度しか会わない人、あるいはもう何年も会っていない人に近況を伝えたい、という意味で、かなりの文字数を書くことにしている。

 どうやら、その文面を誤読されてしまったようだ。まがりなりにも文章を書いて多少の収入を得ている身として、文意を曲解されるのは、困ったものだ。
 一体、どこの部分を、どんな風に誤読してくれたのか。ちょっと、それらしき個所を引用してみよう。
 -お蔭様でコロナ禍にもかかわらず、公私ともにこれといった変化はなく、相変わらずの日々を過ごしております。ご案内のように七十代の男性と身近に暮らしたことがないので、毎日が新鮮というか未知の道をとぼとぼと歩いているという生活です。とはいうものの、唄の文句じゃないけれど、そぞろ歩きは71歳でも、心にゃ17歳の血が通う、でしょうか。今年はなんと年男です。-
 以上が今年の年賀状の一部分です。この辺りのどこかが、友人たちには引っかかったらしい。
 僕の真意としては、七十を過ぎてからの一人暮らしは新鮮な驚きに満ちている、ということを言いたかっただけなのだが。
 ご存じの方もいらっしゃると思うが、僕の父、山口瞳は六十八歳で亡くなった。また祖父、正雄は六十九歳で亡くなっている。伯父と叔父は六十になるかならずで亡くなった。つまり、七十歳以上の老人、特に男性が同じ屋根の下で一緒に暮らしている、という経験を僕が持っていなかったということを言いたかったのだ。七十以上の老人としての世渡りが未知だけに新鮮だという意味だった。

 それなのに、“ご案内のように七十代の男性と身近に暮らしたことがない”というのを同居人が現れたので新鮮だと誤読したようだ。
 もって瞑すべし、とはこのことだろうか。年賀状だけに、男の家族は早死などという忌み詞を使いたくなかっただけのことなのだ。
 それに正直に書けば、独り暮らしの孤独を身に沁みて感じるときがない訳でもない。