変奇館の正月

父、山口瞳が元気であったころ、変奇館の正月は暮れの買い出しから始まった。築地の懇意にしてもらっている寿司屋のご主人の案内で築地の場内でマグロのさくやタコ、玉子焼きなどを仕入れるのだ。当時はまだシロウトが場内には入れない、などといわれていた頃だった。早朝の仕入れに同行するのは大変で、後にはお昼過ぎに松竹本社裏のお店に出向いて受け取ることになった。このときばかりは僕も年越しの寿司をいただくことになる。

 大晦日になると、金沢の料亭から、浜であがった最上級の越前蟹数杯が届く。同じく金沢の老舗バー、倫敦屋さんからは新鮮なブリが二匹ほど届く。すでに東北地方のファンから数尾の荒巻ジャケが届いていて、意外にも料理が上手い母・治子がヒズナマスを造る。同時に三田の大坂屋さんの餡子を使って大量のお汁粉を造っている。
 新宿区役所裏にあったバーのマスターが大鍋一杯、三十人前はありそうなカレーを台所に運び込む。駅前商店街にあった個人経営のお肉屋さんが300グラムのサーロインとヒレステーキを各十枚、持ってきてくれる。これを焼くのは僕の担当だ。およそ二十年にわたり、シロウトでこれだけのステーキを焼いたのは僕ぐらいだろうか。
 谷保の駅前にあった小料理店の女将が谷保名物の田舎風煮物を一抱えもある鍋に入れて持ってきてくれる。店は「居酒屋兆治」でモデルになった焼鳥「文蔵」の向かいにあった。
 大晦日もだいぶ暮れてきたころ、浦安のホテル・オーナーが三十杯ばかりのワタリガニと共にあらわれ、必然的に年越し蕎麦を食べながら酒杯を上げるということになる。
 僕は、このときとばかりワタリガニをむさぼり食う。
 瞳は巻紙を取り出して元旦のメニューを墨書する。この書は表装されて現在も食堂の壁を飾っている。一文字、誤字があるのも瞳らしいご愛嬌だ。
 なんでこんなことになるのかと言えば、元旦に延べ人数で百人ほどの来客があるからだ。

 山口家の新年会は一月一日と決まっていた。
 瞳が、一国一城の功なり名遂げた方ならば、元旦は自宅で、と断りやすいのではと思い、この日にしたのだ。しかし、元旦は山口家で、と決めている方が多く、家族連れでにぎやかなことになった。
 これで、誰も来なかったら、どうしよう、と瞳が独り言を言っている。この当意即妙の冗談が瞳の身上だ。