田沼武能さんのこと

今年(2022年) の六月一日、写真家の田沼武能さんが93歳で亡くなられた。
 父、瞳との親交は長く、洋酒の寿屋(現・サントリー)の宣伝部に瞳が勤めていたころ、よく仕事を依頼していた。トリスの新聞広告写真に自ら、休日のサラリーマン役でモデルになり、その子供役で僕も被写体となった。このときの写真は直木賞受賞作『江分利満氏の優雅な生活』の口絵写真ともなっているから、ご存じの方も多いだろう。

 田沼さんは三多摩地区の自然と庶民の生活を題材にすることが多く、谷保天満宮の写真を撮影したとき、偶然、瞳の知人が写っていて、それ以降、国立市の住民との交流が始まった。後に田沼さんが菊池寛賞か紫綬褒章を受賞されたときに国立で受賞記念パーティーが催された。お祭り好きの国立市民が率先して企てたのだが、地元では何のお祝いもしてくれない、と田沼さんが冗談半分でおっしゃった。以後、田沼さんは谷保(国立の旧名)の名誉村民を名乗ることとなる。瞳とは共著に『月曜日の朝』(新潮社)がある。多摩地区から都心に通勤するサラリーマンの日常を描いた瞳のエッセイと田沼さんの写真が半分半分で『週刊朝日』に連載されたものだ。瞳が著作権印税を折半にしようと提案して田沼さんが喜んだ。当時、買い取りが多かった写真に印税が支払われることは珍しかったようだ。
 父の死後、田沼さんは『回想山口瞳田沼武能写真集江分利満氏の想い出四〇年』(岩崎美術社)を上梓している。
 変奇館の新年会や花見の会には必ず、出席していらっしゃり、元旦の集まりには瞳の死後も、母、治子の亡くなる前年まで、お見えになっていた。

 田沼さんとは、少しばかり苦い思い出もある。僕が田沼さんを知ったのは瞳が『江分利・・』を書いた以前からで、十歳前後だっただろうか。後に僕は映画好きが高じて、映画監督になりたいと思うようになる。それには演劇学校と写真学校を出る必要があると思い、そのことは田沼さんにも伝えていた。先ずはそのまま進学できる桐朋学園の演劇科に進んだのだが、演劇も大変で、写真や映画どころではなくなっていた。あるとき、温和な田沼さんが、珍しく少し怒った顔をして、正介さんのために場を用意していたけど、いつまでたっても来なかった、というようなことをおっしゃって、すぐに元の笑顔に戻った。忘れていたとはいえ失礼なことをしたものだ。