自転車を漕ぐ

父、山口瞳は色紙に「自転車を漕ぐというのはおかしいと吉野秀雄先生が言った」と書くことがあった。吉野先生は日本を代表する歌人で万葉集の研究家でもあった。若かりし頃、鎌倉アカデミアに学んだ瞳は吉野先生の薫陶を受けることになる。正しい日本語を学んでいる吉野先生は漕ぐというのは櫓を漕ぐというように前後運動、あるいは上下運動を指す言葉であり、回転運動である自転車のペダルを回す動きを表現するのには適さない、とお考えだったのだろう。さんずいというところも陸上のものである自転車にそぐわない。

 また、これも日本語に敏感な瞳だから、授業中の先生の言葉を憶えていたのだろう。
 僕は長いこと自転車に乗れなかった。生家の前が繁華な都電通りだったので、祖母が危ないからといって許してくれなかったのだ。 国立に引っ越してきた我が家は自転車を買うことにした。ご存じのように国立は平坦で区画整理されているので、自転車に適している。僕は中学二年生になっていて、まだ自転車に乗れなかった。新品の自転車が我が家に来たとき、父が近所の小学校の校庭に僕を連れ出して、自転車の乗り方を教えてくれた。 もちろん補助輪もない大人のサイズの自転車だ。僕がサドルにまたがり、荷台に手をかけた父が後ろから押してくれた。広い校庭を何周かしたとき、父が後ろから、もう押してませんよ、と声をかけた。振り向くと父がずいぶん離れたところに立っていた。
 たった数分で、僕は自転車に乗れるようになっていたのだ。父が僕に、手を取って教えて(これも変な言い方か)くれた、数少ないものの一つだ。仕事が忙しくなっている父が自転車に乗る機会はなく、自然と自転車は僕のものということになった。数カ月後には、家を出て日野橋で多摩川を渡り、関戸橋を渡って戻ってくるなどという遠征までするようになっていた。

 生来、病弱であった僕が唯一、運動らしいものをしたとしたら、サイクリングかもしれない。十余年前に、いわゆるクロス・バイクタイプの自転車を購入し、直後には午前中に日野橋の先まで往復することを日課にしていた。多摩川沿いには整備されたサイクリング・ロードがあるのだ。
 その習慣もすぐに飽きてしまったのだが、最近になってもう一度、挑戦してみようかという気持になっている。自転車は、あの日の父との思い出でもあるからだ。