床は拭き漆(2)

食堂と隣接する台所の床を拭き漆にすることになった。頑亭先生が小柄な身体をかがめ手際よく漆を塗っていく。
 その返す片手で着古した下着で漆を拭き取る。だから拭き漆なのだ。
 たった一度のこの作業で塗られた漆は三十余年を経たいまでも艶やかで、むしろ味わいを深めている。漆の力、恐るべし、というところだろうか。…

床は拭き漆(1)

壁と天井の本漆喰の上に鮮やかな浅葱色の格子縞ができていた。純白の漆喰とコマイとの化学反応でそういう現象がおきたのだ。これは困ったことになった。頑亭先生は、だからいわないこっちゃない、という感じで憮然としていらっしゃる。
当然のことながら壁は塗直しということになった。この作業は一度ならず二度、三度と行われたと思う。また、どこまで削ったのか、あるいは上塗りだけだったのかは、現場に付き切りというわけではないので、わからない。ただし、作業をやり直す度に浅葱色の格子縞は薄くなり、最後には出現することがなくなった。

さて、いよいよ床の塗装である。幅二間弱、長さが五間ほどの細長い食堂と台所になる部屋だ。そこに厚さが一センチほどの杉の無垢材が敷かれた。何も柾目の高価な杉というわけではない。ごく普通の木目が荒れた材だが、それが素朴な味わいをだしている。当初、何もしないで白木のままの床はそれだけでも、なかなかに魅力的で、これでいいのではと思ったものだが、頑亭先生は、全面を拭き漆にするとおっしゃる。…

コマイ

水没した食堂部分の改修工事を監督する頑亭さんの指示は、床と腰板は無垢材として壁は本漆喰とするというものだった。
最近の漆喰壁は石膏ボードで下地を造り、その上に漆喰を塗ることが主流になっているだろうか。
室町以来の工法に詳しい頑亭さんが、そんなことを許すはずがない。土地の大工さんが作業に入ったとき、たちまち頑亭先生からだめ出しがでた。…

伝統回帰

一九七九年九月四日、変奇館が水没したことは書いた。これにより、食堂と台所、風呂場が使用不能となった。超近代的な現代建築の居間で簡単な電気コンロで煮炊きするという生活がはじまる。まるで避難民のようだ。いや、まさに水害からの避難民であるのだが、町内でも我が家だけというところが、情けない。汚水をたっぷりと吸ったカーペットは断裁されて廃棄処分となり、合板の壁やら作り付けの家具も湿気で膨らんでしまったので撤去された。冷蔵庫と洗濯機は修理がきくというので、これも運び出され、半地下はまっさらな倉庫のようになった。

 これを見るに見かねたのか、父の作中、風貌がドストエフスキーに似ているのでドスト氏として登場する仏教彫刻家の関頑亭先生が、一肌脱ぐことになる。
 頑亭先生は大正八年生まれで、齢九十六にして、いまだにご健在だ。木彫の澤田政廣に師事して脱活乾漆の技法で彫刻を造られるのだが、木造建築として紀伊長島の愛宕一心教会大師堂を設計監督してもいらっしゃる。…

変奇館水没(2)

国立駅の南側は、国分寺崖線と立川崖線に挟まれた平坦な土地だ。二つの崖線は、不思議なことに多摩川の下流から上流に向かって低くなっている。液体は粘度を持っているので、傾斜のゆるやかな土地では流れず、溜まるのだった。それが被害を大きくした。

 ここで、変奇館が1978年9 月に増改築したことにも触れなければならない。水害は丁度、その一年後だった。…

変奇館水没(1)

一九七九年九月四日、国立市、国分寺市、府中市周辺は一時間80ミリという記録的な集中豪雨、いまでいえばゲリラ豪雨に襲われた。国立市の駅よりは立川から続くなだらかな平地で、南側は甲州街道を隔てて一段下がって多摩川の河川敷になる。また東側は例の忌野清志郎の歌でも有名な多摩蘭坂で知られるように国分寺側が高くなっている。すなわち、立川側から流れ込んだ雨水は国立駅南側の区画整理された部分にたまり、甲州街道に阻まれて行き場をなくす。しかも、宅地造成する際に道路部分を削って住宅の敷地が三尺以上高くなるようになっている。確かに昔の日本家屋は石段を数段上がって玄関があるという設計になっていなかった。これが二重に雨水を集めることになる。我が家が国立に越してきたころは、ちょっとした雨でも大学通りに水があふれ、驚くべし、軒先に小舟を吊るした店まであったのだ。それほど、水が出やすい土地柄であった。まして、後に分かったことだが、我が家の建っている一角はかつてアシやらヨシが生い茂る沼地があったという。いまでも拙宅前から西側を見ると、道路がそれとわかるほど傾斜している。西側が高いのだ。
 我が家は国立市の東端。すぐ裏は府中市になる。区画整理された国立市の駅寄りではもっとも低い場所に位置するだろうか。瞳の印象としてはこの辺りは台地であり水害などとは無縁であろう、というものだった。
 その日、夕方の五時ごろからポツリ、ポツリと降り出した雨は八時ごろ大変な事になる。…

床柱・考

話を少し前に戻そう。建築家に自宅の設計を依頼したころのことだ。ご存じのように、施主は設計者に、生活信条というか、ライフスタイルを話す。施主のほうの家族構成とか、家をどのようなものにしたいとか、今現在の趣味やら老後の希望などを伝えるものだろうか。そして、建築家のほうが、それを実現するためには、このようにしましょうと提案することになる。
 これが、瞳の場合は少し違ったものとなった。抜粋になるのだが『男性自身/壁に耳あり』から引用してみよう。

- …

着工

一九六八年六月、とうとう我が家の新築工事が始まった。構造は鉄骨造、一部コンクリート造だ。完成は翌年の一月となる。数階建てのビルを建てられそうな太いH鋼に、当時はできたばかりだったと記憶している軽量気泡コンクリート、商品名はシポレックスというパネルで壁と屋根を造る。当時の宣伝文句に本格的プレハブ構造部材とあり、工期の短縮もうたい文句の一つだ。当初、工期は数カ月で夏ごろには入居できると思っていた。それが長引いてしまったのには訳がある。

 この理由について身辺雑記を得意とする瞳はついに一言も書かなかったと思う。
 有体にいえば、隣接する土地の所有者との間で境界線問題が発生して裁判ざたになっていたのだ。瞳が書かなかったのは、僕が書いたら隣の大家はこの土地にいられなくなりますよ、という理由だったろうか。瞳のやさしさと気遣いだ。したがって、新居の建築に関する面白おかしい物語の矛先は、もっぱら設計者との齟齬に向けられてしまうことになった。…

増築が新築へ

父、瞳が作家に相応しい書庫が欲しいと言い出した。母、治子は、だったらあたしはちゃんとしたキッチンが欲しい、と言う。
新築の着工が一九六八年六月であるから、それに先立つ半年ぐらい前のことだろうか。

 瞳が私淑するドイツ文学の高橋義孝先生に話したところ、息子の嫁が建築家だとおっしゃる。これは内の嫁に任せろ、という意味だと瞳は解釈した。ハイテクだかローテクだか、最先端の前衛建築を得意とする高橋公子さんは、当時、女流建築家として有名な方だった。…

雑木林の庭(2)

まずは外観からと思い、庭について書いたのだが、さすがに一度では書ききれない。
 父、瞳がけっして広くはない庭に雑多な樹木の苗を多数、植えたということは前回、書いた。それは俗に雑木といわれるもので、庭は雑木林となった。
 雑木とは別に庭木というジャンル(?)がある。この違いはどこからくるのだろう。…

雑木林の庭

近所でガソリンスタンドができるのではないかと噂された前衛建築の鉄筋コンクリートの家はできた。その家のことを詳述する前に、まずは外堀を埋める、ではないが、少し庭のことを書いてみよう。

 この庭も父、山口瞳がこよなく愛したものだったことは、みなさんご存じだと思う。
 完成した新居の庭は五間に四間ほどの四角い更地であった。その中央には、前衛芸術のオブジェを模したのか、容量350リッター、銀色に塗られた石油タンクが鎮座していた。…

まずはじめに。ご挨拶

築四十五年、この家はまだ完成にいたっていない。
父、山口瞳が自宅を新築することにした。完成が1969年の一月で、すぐに入居しただろうか。

当初、近所のひとはガソリンスタンドができると思っていた、という現代建築であった。…