冬は温室

新築当初の変奇館にはクーラーというか冷房設備がなかった。
まだ地球温暖化、などといわれていないころだったからだろうか。暑ければ、窓を開ければいいじゃないかとでも考えていたのだろうか。

 冬の暖房は大型の石油ヒーターがあり、真冬でもTシャツ一枚ですごせるほどだった。変奇館は何度も書くように発泡コンクリートの壁と大きなガラス窓から出来ている。発泡コンクリートはそれなりに温度差を軽減できる機能をもっていたようだ。…

庭の土壌回復

今年は庭の南西の角にあるユズの木に実が百個以上も成った。実に不思議なことだ。
 天候不順で作物が実らないといわれているのに、大豊作となった。しかし、一つ一つの実の大きさは、かなり小ぶりである。
 我が家の庭には花の咲く木も実のなる木もあるが、どうしたかげんか、いずれも花は咲かず、実はならない。ただただ巨木となって青々と繁るばかりである。…

庭と瞳と植木屋さん

この庭はやりようがないねえ」と後に懇意となる地元の植木屋さんが言ったと、瞳が書いているは「男性自身」シリーズの「変奇館日常」だ。以下、引用はすべて「変奇館日常」の第三話から。

 前にも書いたが変奇館の庭は四間四方ほどのほぼ正方形で、真ん中辺りにセントラルヒーティング用の石油タンクが置かれている。 このタンクは鋼鉄製の櫓の上に設置されており、政令などで決められているのか、銀色のペンキで塗られていた。…

家を建てる

山口瞳が家を建てた経緯はいささか複雑である。本来、この国立の家は借地借家であり、僕が地元の中学高校一貫の私立に通っていたので、ここに住むことになった。
 それに先立ち、瞳が直木賞を受賞し、週刊誌の連載もはじまったので、サントリーに辞表を提出したという事情があった。週刊誌の連載というのは週刊新潮の「男性自身」シリーズのことだ。さすがにサラリーマンと小説家の二足の草鞋も忙しすぎれば不可能にある。

 そんな経緯で瞳は辞職し、それにともない社宅を退去せざるを得なくなる。そんなとき、僕が通っている学校の近くに引っ越すというのが、一番合理的だった。木造二階建ての借家に入り、しばらくしたら、大家さんがこの家を買ってくれ、と言い出した。瞳は僕の高校卒業を待ってもう少し交通の便がいい都心なり荻窪あたりに引っ越すつもりだった。しかし、買ってしまったので、おいそれと移動することができなくなった。収入が不安定である小説家に銀行が融資してくれたのは、妻である治子の力が大きい。どういう訳だか、銀行員などにひどく顔が利くのだ。それでも、収入がなければ、どうしようもない。ちょうど地方紙の新聞連載がきまったので、それをまるごと住宅ローンに回すということで、銀行側も納得したようだった。…

薪ストーブ、初体験(2)

ホテルの部屋に薪ストーブがあったので、さっそく着火した。最初は大量に煙が出て、部屋にこもるので、部屋の窓は全開にしておいてくれとホテルのマネージャーに言われた。
 実は別室に入った同行の写真家が同じように火を付けたところ、火災警報がなってしまったのだ。あわてて駆けつけたマネージャー氏が、必ず窓を開けてくれと言っていたのだった。
 火勢が安定すると煙は雲散霧消(?)してきれいな炎が立ち上がる。この段階になると窓を閉めても火災報知機が鳴り出すということはないのだった。…

薪ストーブ、初体験(1)

ひょんなことから真冬のニュージーランドに行ってきた。南島でホエール・ウォッチングとともにアザラシやアホウドリ、イルカなどの自然観察をしようと思い立ったのだ。
 投宿したのは人口四千人ばかりの小さな町にある小さなホテル。外観は木造風の二階建てでウッディなコテイジ風である。室内は広く、現代的な水回りが備えられていて、一流ホテルの趣だ。
 窓辺に設えられている薪ストーブを見て、僕は歓声をあげた。宿泊者が自分で火を着けるというシステムだった。…

雨漏り

雨漏りが止まらない。
 何度も書いたが変奇館はH鋼を組み合わせ、発泡コンクリートのパネルを張り合わせて天井と壁をこしらえた。屋根はこのパネルの上に厚手の防水シートを敷いただけだ。
 これが新築当時から面白いように雨漏りした。天井や壁に沿ってジワジワと滲むのではなく、滝と見紛うばかり、盛大に室内に噴き出すのだった。…

延段(のべだん)

話は前後するが、変奇館が完成した当時のことだ。庭は五間の三間、つまり十五坪程度の更地であった。
 父、瞳はつてを頼って奥多摩の清酒、澤乃井で知られる小澤酒造株式会社の裏山に分け入り、その辺りに生えていた実生の雑木の苗木を数十本も譲り受けた。
 太いものでも直径五センチほどだっただろうか。辺りはにわかに深山幽谷とまではいかないが、新緑が美しい雑木林になった。…

頑亭邸炎上(3)

さっそくの前言訂正ですみません。
頑亭先生のご子息を“純薫”と書いてしまいましたが、父、瞳の作中では“蓴葷”と書いて“じゅんくん”と読ましていました。ご本人から証言を得ることができました。
 本名、関純さんなので、純君/じゅんくんで蓴葷なのでした。…

頑亭邸炎上(2)

頑亭先生のお宅がほぼ全焼した。貴重な美術品を含む後片付けは神経を使う作業であっただろう。
 脱活乾漆の鯰で知られる頑亭さんは風呂場で鯰の彫刻を乾かしていた。
 ご存じのように漆は湿度がなければ乾かないという不思議な性質をもっている。だから作業工程の一環として風呂場に設えた棚にしばらく乗せておくのだ。この三尺余りの鯰が火災のとき、浴槽に落ちた。その結果、上半身が焼け残り、下半身が黒焦げという鯰の彫刻が出来上がっていた。…

頑亭邸炎上(1)

まだまだ寒さが残る三月二五日、谷保のヤキトリ屋「文蔵」で父、山口瞳と関頑亭先生が飲んでいた。「文蔵」は瞳の著書「居酒屋兆治」のモデルとなった店だ。
 父の作中、純薫として知られる、頑亭さんのご長男が飛び込んできた。頑亭先生のご自宅が火事だというのだ。このときのことを瞳は、不思議なことに純薫は信号無視をしても、交番で停められなかった、と書いている。 一九七七年三月二五日のことだ。当時、頑亭先生は五八歳。頑亭先生はただちに飛び出したが、そのあとが大変であったらしい。もちろん火事は大事件なのだが、問題はそこではなかった。…

待庵・考

テレビのドキュメンタリーをぼんやりと見ていた。テーマは千利休作と伝えら れ、日本最古の茶室建築であるといわれる「待庵」についてだった。この茶室のいわく因縁やら構造やらが重々しく語られていく。それを聞きながら、あれ、この話はどこかで聞いたことがあるなあと気がついた。
それはこの変奇館を設計した高橋公子さんがどこかで書いていた建築論だった。…