頑亭邸炎上(3)

さっそくの前言訂正ですみません。
頑亭先生のご子息を“純薫”と書いてしまいましたが、父、瞳の作中では“蓴葷”と書いて“じゅんくん”と読ましていました。ご本人から証言を得ることができました。
 本名、関純さんなので、純君/じゅんくんで蓴葷なのでした。
 瞳は作中の人物に当て字のようなあだ名をつけるのを好んでいました。担当編集者の池田雅延さんは臥煙(がえん・昔の火消し)で、出入りの畳屋さんには多々宮という字を当てていました。おそらくは昔、流行った「家族合わせ」というカードゲームのパロディのつもりなのでしょう。家族合わせでは金満家の金野有造、などとするのでした。

 それはともかくとして、純さんが頑亭先生のお宅について色々と教えてくれました。
 まず、柱は杉材で実測、3 寸 8 分角だそうです。この太さのものを基準として家の構造を組んだものと思われます。この太さの杉材をふんだんに使うというのが大変なことなのかどうかは専門家ではないので分かりませんが、どうなのでしょうか。また床柱は屋久杉で4 寸 3 分角だそうです。
 変奇館の床柱が張り柾だったのと比べると大違いです。瞳もそれと分かっていれば、このぐらいの贅沢はしたかったのでは、と考えてしまいます。 

 雨の日に部材を組むと、湿気であとからゆがみが出るというので、一向に進まなかった工事もやっと終わりました。
 瞳が頑亭先生に、これで完成ですね、と言ったところ、頑亭先生は意味ありげに笑って、まだ、もうひとつ作業があり、それまでは未完成だとおっしゃる。
 地震がきて、軽く一揺れすることによって、継いだ柱と柱が、はじめてしっかりとかみ合うのだとおっしゃる。それまでは完成とはいえません、とのことだった。地震大国の日本の伝統には、それすらも使いこなす知恵があったのでした。