伝統回帰

一九七九年九月四日、変奇館が水没したことは書いた。これにより、食堂と台所、風呂場が使用不能となった。超近代的な現代建築の居間で簡単な電気コンロで煮炊きするという生活がはじまる。まるで避難民のようだ。いや、まさに水害からの避難民であるのだが、町内でも我が家だけというところが、情けない。汚水をたっぷりと吸ったカーペットは断裁されて廃棄処分となり、合板の壁やら作り付けの家具も湿気で膨らんでしまったので撤去された。冷蔵庫と洗濯機は修理がきくというので、これも運び出され、半地下はまっさらな倉庫のようになった。

 これを見るに見かねたのか、父の作中、風貌がドストエフスキーに似ているのでドスト氏として登場する仏教彫刻家の関頑亭先生が、一肌脱ぐことになる。
 頑亭先生は大正八年生まれで、齢九十六にして、いまだにご健在だ。木彫の澤田政廣に師事して脱活乾漆の技法で彫刻を造られるのだが、木造建築として紀伊長島の愛宕一心教会大師堂を設計監督してもいらっしゃる。
 いずれも平安、室町の技法そのままに製作されたものだ。ひところ、国産漆の七割は頑亭さんが使っているという噂があった。釘を一本も使わずに建てられた、もちろん木造のご自宅は、雨の日は木材が歪むので作業しない、完成しても地震の一揺れで継ぎ手の部分がぴたりと絞まるまで、本当の完成ではない、とおっしゃる。古からの口伝だ。

 その頑亭先生が半地下の改修工事を請け負うというのだ。当初のモダン建築家と父の間でどんなやりとりがあったのかは知らないが、ともかくそういうことになった。
 基本的には床を無垢材で張り、壁と天井は本漆喰、露出していたH鋼は凹状にはつった原木をはめ込み、これはダミーだが古民家風な梁に見立てることとなった。
 超近代的な家の中に、そこだけ古刹の庫裏のごとき部屋が出現した。まさに変奇館の面目躍如である。そこにはまた、別の問題も出来することになるのだが。
 
 
 

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