庭の柚子の木

母が亡くなる前の年(2010年)の正月頃だったと思うが、庭の片隅に黄色い物体が一つ、落ちているのに気がついた。
 近寄って足先で転がしてみると、どうやら果実であるらしい。変奇館の庭にそんなものが転がっているのはおかしいと思って見上げてみると、庭の角地に植えてあった柚子の樹の枝に一つ、二つの実がなっているのを確認できた。
 さっそく食卓にむかって坐っていた母に報告したのだが、母は植えたことも忘れていたらしく、ただ、ああそうなの、と気のない返事を返すのみだった。…

台風一過(2)

国立の変奇館が何度も雨漏りにみまわれて往生したという話は何度も書いているような気がする。しかし、風の被害については、あまりふれていなかったのではないだろうか。
 わが家の親子三人が国立に引っ越してきたのは、僕が中学の二年生になった頃だった。それまで、中学一年生として一年間は東横線の元住吉駅から、いまは住みたい町ナンバーワンの武蔵小杉駅を経由して南武線で谷保駅まで通っていた。そこから徒歩で登校していたのだ。
 この道中だけで生来虚弱な僕はすっかり疲れてしまい、勉強どころではなかった。それはともかくとして、当時から冬になると木枯らしと共に砂塵が舞うことを、僕は両親よりも一年早く知っていたのだ。…

台風一過(1)

henkiんだっての日曜日の昼過ぎ。変奇館の玄関でチャイムが鳴った。最近では来客も珍しい。何事かと思ったら、数年前に引っ越ししてこられた、お隣のFさんのご主人だった。わが家が国立に引っ越してきたころ、南隣は立派な山小屋風のHさん宅で、ご主人は確か日野か八王子あたりの地方裁判所の裁判官を勤められている方と聞いていた。
 私道を挟んだ東側は、栗林だった。休耕農地に便宜上、栗の苗木を植えたのだろうか、今は木造二階建てのアパートになっている。北側は市道を挟んで日展の彫刻家だったI氏邸。そして、西側は二百坪の敷地の半分がなんとゴルフの練習場で、残りがタクシー会社の駐車場になっていた。両方とも、引っ越してきた頃でも、打ち捨てられたような廃墟になっていた。もう何年も使用されていないようすだった。

 その西側の土地は1970年代に二棟の木造二階建てのアパートとなり、南側の奥まったところに地主さんが自邸を建てた。…

キジバトの営巣

変奇館の15坪ほどの狭い庭の南端に瞳が植えた月桂樹の立ち木がある。高さはおよそ3メートルほどだろうか。薫り高いローリエとして料理に使えるのだが、実際にわが家で使用したことはなかったようだ。
 この夏、この月桂樹のこんもりと繁った樹冠近くにキジバトが頻繁に飛び込んでいる様子が観察できた。
 狭くなった枝と枝の間を器用に避けて葉陰に隠れてしまう。もしや巣作りではないかと思っていると、どうやら産卵したらしく、双眼鏡で覗いてみると白い卵が確認できた。…

わが家の朝食(2)

山口瞳のことだから、朝食は和食だろうと思われるかもしれないが、祖母の静子、つまり瞳の母親が大変、ハイカラで、朝食は目玉焼きにトーストという人だった。
 瞳自身も、その影響か、トーストにチーズを乗せて食べるのがお気に入りだったのだ。おかげで、僕も朝食は洋食となった。

 市販のホットケーキミックスに全粒粉を半分ずつ混ぜ、それに小麦のフスマを適量加えて、ホットケーキを焼く、というスタイルが定着している。…

わが家の朝食

わが家の朝食は一貫して洋食であった。
 物心ついたころから、トーストとハムエッグのような献立だった。そして飲み物は珈琲であったように記憶している。
 これは麻布時代のことなのだが、国立に越してきたころは、まだ母も元気で御飯に味噌汁、焼き魚というような和食であった時期もある。…

土鍋・考

めったに自宅で食事をすることがないのだが、炊飯には土鍋を使用している。
 美味しく炊けるということは知っていたが、電気釜よりも簡単だということは購入するまで知らなかった。
 しかし、利用するようになったのは二〇一一年に母が亡くなってからしばらく経ったころからだった。…

不器用

瞳が不器用であったことは、本人が一番よく知っていた。そして、また、そのことを何度も書いている。
 軍隊時代には、不器用であることが決定的だった。なにしろ軍隊というところは要領だ、というのが持論である瞳にとって、不器用と要領はほとんど同じ意味であったのだから、軍隊内部では大変なことになった。
 まず、ゲートルが巻けない、軍靴を履こうにもチョウチョ結びができないのだ。…

辛夷が枯れた

庭の南西の片隅にある辛夷が枯れた。去年の夏ごろから様子がおかしく、紅葉したのかと思ったら葉を落してしまい、それきり、今年になっても開花しないままだった。
 今年の四月に、二階の屋根よりも高くなっている辛夷の近くまで屋根づたいに近づいて先端に触れてみると、あっけなく折れてしまった。すでに乾燥していて、枯れたことは火を見るよりも明らかだった。
 瞳は「芸術新潮」で連載していた『武蔵野写生帖』の「庭の白木蓮」(一九八一年五月号)で辛夷について少し書いている。…

北大路魯山人(2)

食卓の皿小鉢から箸置きにいたるまで、僕が生まれたころは、すべて魯山人の作品だった。しかし、今現在、わが家に残っているのはほんの数点にしかすぎないのだ。
 まず、瞳の二人の妹が結婚したときに、それぞれに大皿や五客揃いの取り皿などを嫁入り道具として持たせている。また長男と三男が家庭を持ったときにも、それなりの魯山人を分けている。この時点で、残っていた魯山人残りわずかだった。
 結局、瞳と治子と僕の親子三人が最後まで祖父母と一緒すことになり、それは祖母静子の突然の死によって終わることになる、最後の時期だった。…

北大路魯山人

魯山人については、いずれまとめて書かなければならないと思っていた。
 瞳が繰り返し、わが家の食器はすべて魯山人だったと書いてきたからだ。
 魯山人が、扁額、篆刻、書画、とりわけ陶器の作家として、このところ高く評価されていることは、あらためて書くまでもないだろう。…

象牙の箸

時節柄、あまり取り上げたくない話になるのかもしれないが、山口瞳を語る上で避けて通れないのが、象牙の箸だ。
 今現在、象牙の利用はあまり褒められたことではない。アフリカ象が絶滅危惧種だからだ。日本の伝統工芸品には、紫檀、黒檀など外国産の素材を使うものが多い。これ大変に珍しいことらしい。

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