土地の変遷(2)

私道を隔てた東側にあった二階建てのアパートが無人になり、しばらくそのままになっていたが、取り壊されて更地になり、売物件という大きな看板が建てられた。東側から、変奇館の全容を眺められることは、これまでなかった。こんな機会は滅多にあるものではない。僕はさっそくデジタル・カメラを手にすると、はじめて距離を隔てて眺めた変奇館を撮影した。実は、西側のアパートが取り壊されて更地になったときも変奇館の西側を、充分な余裕をとって撮影してある。

 去年の初夏、市道を隔てた西北の奥様が変奇館を訪ねてみえた。滅多にあることではなく、何事かと思ったら、引っ越されるということで、我が家にも挨拶に来られたのだった。
 僕は意外なことに絶句するのみだった。というのも、ほかでもない、このお宅は瞳が初めて国立に引っ越してきたときからのご近所なのだ。
 北側は彫塑家のIさん宅で、すでにご養子である息子さんたちの代になっている。南側のお宅は長く余所で暮らしていたお孫さんの代だ。東側は件のアパートで、元は栗畑。
 引っ越してきたときに、この西北のお宅には僕と同い年ぐらいの美少女がいて、この娘さんが、挨拶に見えた奥様の五十余年前の姿なのだ。つまり、この二十年ばかり、僕が国立に引っ越してきたときからの顔見知りといえるのは、この同世代の奥様だけになっていたのだ。
 時の移ろい、という言葉を瞳は著作のあとがきの題名にしていた。まさに時の移ろいとは、このことだろうか。
 日ならずして、この西北の戸建ても更地になって、さっそく若い夫婦が不動産屋に案内されて見学に訪れていた。

 こうして、我が変奇館が、隣近所では一番古い建物になって、なにやらうら寂しい。
 そんなとき、また玄関のチャイムが鳴り、何事かと思ってドアを開けると、南隣の御夫婦が業者らしき方を伴って立っている。
 ああ、またしてもお引っ越しかと思ったら、増築するのでよろしく、とのことだった。
 ホッと安堵の胸をなで下ろすとは、このことだろうか。どうぞ、どうぞ、是非やってください、と我がことのように喜んだ。僕が欣喜雀躍した理由をご夫妻にご理解いただけただろうか。今は連日、大工さんが入って賑やかだ。復興の槌音という言葉も瞳が好んだ言葉だった。