土地の変遷

我が家が国立に引っ越してきたとき、借りた家は木造の二階建ての安普請だったことは、すでに書いている。南側には瀟洒な山小屋風の邸宅があって、日野か八王子の裁判所に勤務する方のお住まいだった。西側は何度か書いている廃墟のような工場跡と打ちっぱなしのゴルフ・レッスン場だった。
そして東側は私道を隔てて百坪ばかりの農地で、そのころは栗の栽培が行われていた。おそらくは税制上の問題で、更地にするよりは、なんらかの作物を栽培して、農地として登録しておいたほうが安上がりということだったのではないかと推測している。なぜならば、そこで収穫できる栗が、量も少なく商品としてまかり通るとは、とても思えなかったからだ。記憶している限り、誰かが手入れをしたり、栗の実を拾い集めていたりする姿を見たことなかった。

その後、この栗林は一棟の二階建てアパートに変身して、学生や夫婦者が入居することになる。下に四軒、上に四軒だから最低でも八人、場合によっては十六人余りが入居していることになり、それなりに賑やかなものだった。しかし、何時の頃からか、入居者が一人去り、二人去りと空き室が目立つようになっていたのだった。
一番、変奇館よりの二階には壮年の夫婦者が暮らしていて、窓越しにではあるが目が合えば挨拶ぐらいはする仲になっていた。
その方の奥様のほうが先に亡くなられて、ご主人だけが残された。そして、数年前に、今度はご主人が亡くなられた。
拙宅に新聞の集金で現れた青年が、「○○さん、亡くなられましたね」と言うので、「どうして知っているの」と聞き返すと、「僕が見付けたんです。郵便受けに新聞が溜まっていたので、警察に連絡したのです。きちんとした方で一日、留守にしても宅配所に連絡があるのに変だなあと思って」とのことだった。いわゆる孤独死ということになるのだろうか。

僕も、もしものときはよろしく、とお願いしておいたが、この青年も転職したらしく、最近は別の人が来るようになっている。
去年の初めに一人残っていた老人が引っ越してアパートは無人となった。日ならずして業者が訪ねてきて、取り壊すので私道の使用許可をお願いしますという。
いま、ここは更地になり、売り物件という看板が建っている。

(この項、続く)