その他

オモチャって。。。

 

我が子はとても安上がりなんです。
ブロックを買ってあげても、パパの昔買った大きなダンプのラジコンを見せても、
あまり興味を示さないのです。
それよりも・・・
ペットボトルのお水、お茶、ジュース。
それを楽しそうに両手で抱えて、いろんな場所に積み上げます。
下手をすると500mlのペットボトルで筋トレ?と思ってしまいます。
そして、ペットボトルを持ったまま、スクワットを始めます。。。

さすが、体育会系の我が息子。

最近では、2ℓのペットボトルを楽しそうに運んでいます。
(一応、足に落とさないように、注意をしていますが 笑 )

 


人気力士・遠藤くんのふるさと

九州場所がはじまった。話題の力士・遠藤聖大くんのふるさと、能登の穴水町に住む友人から、四枚の写真が届いた。以下、友人の解説で。
 
写真みると、空が暗く低いでしょう。でも、いま時分は東京と同じくらいの気候。そんなに違わない。1月か2月、雪が降って風が吹いてくると、さすがに寒い。だけど、以前より暖かくなり、雪の量は減った。山側の地域では昔は除雪した雪、道の左右3 メートルくらいの高さに積まれてましたよ。
このあたり、まあ、有名なのは能登の味覚の代表格・牡蠣を養殖する「牡蠣棚」かな。近くには観光用に日本最古の漁法と言われる「ボラ待ちやぐら」を再現したものが立っている。やぐらの上からボラの群れを見つけて、漁をする。写真で、上のほうに人がいるのは、模型ですよ。あの人のことを、ボランティアって呼んでいた、というのは …… ウソ。昔はボラを食べることが多かったのだろうけど、今ではボラの食べ方もわからない人のほうがほとんどだと思う。
遠藤のおじいさんとおばあさんの家では、主にこの辺で漁業、牡蠣貝の養殖、ゴリのつくだ煮やこのわたなども製造、販売している。ほら、海に面した家の写真、あの裏手のあたりが、彼の家。店舗と言うわけではないが、知っている人が買いに行けば、わけてくれる。
家の目の前が、中居湾。まったく波の立たない、まるで湖みたいな海。砂浜じゃないからか、泳いでいる人はみたことない。このあたり、そんなにとくに、身体の大きな人がいるわけではないよ。あの横綱・輪島の影響だったのか、昔、小学校の体育で相撲は必須だった。いまは、わからないけど。……でも、こうやってみてくると、なんか大物が生まれてくるような風土っていう気が、するだろ!
 

小路を散策

 

秋本番。

事務所が移転して、早 一週間。ランチタイムに ご近所を散策。

斎藤茂吉、萩原朔太郎、田中英光、坂口安吾、石川淳、横光利一、

中村汀女、宇野千代、森鴎外の長女 森 茉莉など、

そうそうたるメンバーの旧居跡などが点在するという、北沢川文学の小路をブラブラ。

高い空と 冷たい空気がうれしい。

北沢川緑道のせせらぎで、めずらしい鳥に会えた。

写真が遠いのは、鳥が結構大きくて(カラスくらい)、これ以上、近付けなかったため。

 

 


プーケットからバンコク、そして帰国♪ 

4日目にプーケットを後にしてバンコクへ90分ほどのフライト

 

ついてからは、現地でお仕事をしているお友達に会い

一緒にご飯を食べ

翌日は、ガイド本を片手にフリーの

バンコク観光をしてきました

!(^^)!

 

ワットアルンの階段は写真で見るよりも

実際の角度がかなり急で

高所恐怖症の私は大騒ぎ…。

他の外国人観光客に笑われ

日本人の観光客からは応援され(笑)

ヘナヘナになりながらもなんとか無事に下り、

そのまま、来た道を戻ってホテルで荷物を受け取り

帰国しました~!!

 

今回の旅も数日間ではありますが

自分の五感をフルに使って

食・文化・歴史・交流と

いろいろ体験してきました♪

 

かなりの蒸し暑さで、本当に

体力の消耗は激しかったのですが

貴重な経験がまた一つ増えたなぁと

嬉しくなるamedioでした♪

!(^^)!


お引っ越し

市ヶ谷は、サクラの名所である。駅を降りると、すぐ目の前に 、サクラの通りが広がる。それをさらに靖国通りを行けば、サクラ。左手のお濠の両側にも、サクラ。一口坂を降りて、すぐ左に私たちの事務所がある。この『チルチンびと広場』制作のために事務所を開いたのは   2010年 10月のことだったから、三度の花見を愉しんだことになる。

私たちは、そこで考え、語り、悩み、笑った。そうして、『広場』を育ててきた。いろいろなことが、あった。スタッフみんなにも、いろいろなことが、あった。11月1日。この事務所から、移転することになった。むろん、『広場』を愛してくださる方たちとの、あたたかい、楽しいおつきあいは、これからも、ずっと続いていく。

荷物の片づいた部屋は、ただの白い箱だった。私は、部屋の入口から、中に向かって、黙って、小さく頭をさげた。

………………………

株式会社 エムアイディーオーの新住所
〒155-0033
東京都世田谷区代田 3-26-11
啓明宮前橋マンション 506 号室
tel: 03-6450-8415    fax: 03-6450-8457

 


プーケットの旅③

3日目のプーケットでは、旅行会社から

島内観光ツアーが用意されていたため、参加してきました♪

 

 

 

ファンタシーショーそのものは

あらすじがちょっと「???」でしたが

どうも現地の方や、英語がわかる方でも「?」が出る

内容だそうです(笑)

でも、途中でマジックがあったり伝統舞踊があったり

室内で花火があがったり

空中で人がクルクルと演技をしたり

見ごたえがありました♪

 

プーケット最後の夜は、本当に賑やかで

忘れられない思い出が

また一つ増えたamedioでした♪


プーケットの旅①

今年の夏休みは、プーケット&バンコクへ旅してきました。

タイのファーストフード店

バンコクで乗り継ぎをして

プーケットのホテルに着いたのが22:00…

ガイドさんがいうには、プーケットは

割と治安が良いらしいです。

賑やかなパトンビーチという地区に宿泊したので

夜の街もギラギラ。遅い時間でも、

人がたくさん歩いています。

治安が良いとは言っても、やはり外国。

なるべく現金はセーフティーボックスに預け

無駄な荷物は持たずに

到着したばかりのホテル周辺を散歩。

この時期のプーケットは雨季ということでしたが

ギリギリの曇り空。

夜の街

パトンビーチにはマッサージ店が多く、

ほとんどの店が600円~900円とメニューに書いてあります。

一体どのくらいの施術なのかなぁ?とおそるおそる、

フットマッサージをお願いすると

丁寧に足をもみほぐしてくれました!

それも…丸1時間も!!

フットマッサージでお願いしているのに後半は肩をもんでくれたり

背中を伸ばしてくれたりするので

旦那さんと

「大丈夫だよね?」

「これ別メニュー勝手に追加されてないよね?」と

びくびくしていましたが(笑)

ちゃんと200B(日本円で600円)の請求書。

チップを払うのがマナーと本でチェックしてきたので、

チップも少し支払い飛行機でむくんだ足もスッキリ!!

たっぷりとホテルで爆睡して体調を回復させ

いよいよ旅のスタートです!(続く♪)

 

 

 


『装苑』と「装苑賞」その歩み展@文化学園服飾博物館

文化学園服飾博物館で開催されている『装苑』と「装苑賞」その歩み展へ。

『装苑』は1936年(昭和11年)創刊されたファッション誌で、

「装苑賞」は1956年(昭和31年)創刊20周年を記念し創設された。

会場1階には創刊号から最新号までの850冊の『装苑』がずらりと並び、

2階では80点以上の装苑賞受賞作品が時系列で展示されている。

受賞作品が展示される同スペースで、

1957-1981の装苑賞懐古ショーと1891-1989装苑賞回顧ショーの映像が上映され、

作品と映像を比較しながら楽しめる。 9/28(土)まで開催。

 


リオからの手紙②

リオの自宅跡

リオの自宅跡

 

それからが地獄絵でした。車から油が漏れだし、ガス管は倒れ、町のあらゆるところで火事が発生。まだ3月。日が沈むのも早く、辺りは暗いのに周りは全て火の車。爆発の音もいろんな場所で起こり、子供達も車の中にいながら、精神的におかしくなっていました。

そんな中、小学生はジャンバーも着ずに避難していて、上の子は薄いジャージだけで寒がっていました。同じクラスの女の子のお父さんが、子供達が可哀想だと津波が引いた時を見計らって、ひっくり返った車の上を走りながら、2階から校舎に入り、3階にあった子供達のジャンバーを取ってきてくれました。あの寒い中、そのジャンバーが本当に有難かったのです。

その後、火事がひどくなり、その小学校にも火がつきました。そして裏山にも火が回り、避難場所の体育館にも火が来るかもしれないとの話になりました。山道が2本あって、下った場所に保証はない。そこも津波が来ていて進めないかもしれない。でも、ここもそのうち火に巻かれるかもしれない。後は各自の判断にお任せします。との役場からの連絡がありました。

あの時ほど死を覚悟したことはありません。私は子供達を焼け死なすわけにはいかないと思い、この爆発と火事から逃れたいとの思いだけで山道を車で下りました。それが夜の9時半。下りながらも、山道の辺りには火が回っていました。下ってみると、町の反対側に津波はきていませんでした。真っ暗な静かな道でした。それから山奥に向かってあてもなく走っていると、一か所だけ薄暗く明りがついている場所を見つけ、その建物に入りました。そこが、私たちが103日間避難所にしていた【かみよ稲穂館】という場所です。バスケットコートの3分の2ぐらいの広さで、その時で600人近くが避難していました。飲み物も食べ物もなく、その日は何も飲まず食わず。初めて口にできたのは次の日の午後、避難所の近所の農家の方がおにぎりを作ってくれて、それを一口。あとは子供に食べさせました。それこそ一個のおにぎりを2人で。飲み物は沢水。でも、本当にありがたかったです。水の有り難さったらないですね。自衛隊が来るのも遅く、子供たちがいる私たち夫婦は2日間ほとんど飲まず食わずでした。

震災の一週間後、中学生にノロウィルスが流行りだし、上の子もかかりました。それを看病していた親もうつってしまって。我が家は上の子、旦那、最後に私がなりました。吐いて下痢しても、ろくに食べ物もなく最悪な状態でしたが、運よくその頃から赤十字のお医者さんが一日一回、回って来てくれて、我が家は全員点滴をしてもらって楽になりました。

お風呂に関しては、頭が気持ち悪くて、近くの川で頭を流しました。初めてお風呂に入れたのは、自衛隊のお風呂。忘れもしません。3月25日です。2週間お風呂に入れないでいました。

子供達は、栄養失調にさせたくなかったので、私の姉に迎えに来てもらい、私の実家に預けました。私は、夫のじーちゃんばーちゃんがいるので、避難所に残りました。

(彼女の実家は栃木県で放射能問題がありましたが、子供に関してはまずは食べて生きる選択をしたそうです。ろくに食べ物も飲み物もなく、彼女は普通又は少しやせ形の体型ですが、103日間の避難所生活で5キロ痩せたそうです。)

それからは何もない毎日でした。子供達の卒業式もなく・・・。我が家は子供2人とも入学が控えていたので、上の子の中学校の制服、鞄、ジャージなど、下の子に至っては、気に入って買ったピンクのランドセル、全て流されました。へその緒も、母子手帳も。でも、命があるから。

後から知りました。下の子の担任の先生と、同級生の友達3人は、保育所から避難する途中、渋滞に巻き込まれて津波で亡くなったのです。一緒に小学校に入学する予定だったのに。上の子の同級生で亡くなった子はいませんが、ミニバス(ミニバスケットボール・小学生が対象)の時の1つ上の子が家ごと流されました。小学校も避難場所から家に帰った子が全て亡くなりました。今、下の子がミニバスをやっています。男女あわせて20人位いますが、10人近くの子の片親が亡くなっています。1人の子は両親亡くしてしまいました。そんな中、子供達は頑張っています。

それから仮設に入り、みんなの助けを受けて今に至っています。私も同じ職場で2人亡くし、近所で3人、友人全て合わせると30人亡くしました。そんなことを考えると、家はなくても、家族が怪我一つなく生きていられたこと、本当に感謝でした。あの頃は、何をするにも涙しか出てきませんでしたが、今は、今を生きるしかないから。

みなさんの支援には本当に感謝しています。支援なくして私たちは生きていけませんでした。でも、テレビで見ている東京は華やかに見えるけど、多分、被災者は今でも心から笑ってテレビは見ていないと思います。今もなお仮設で暮らし、不便な私たちを忘れてしまったのだろうなぁと。

私たちが怖いのは、震災を忘れられること。今は福島しか話が出ないけど・・・ 私たちは、あの時から、何一つ変わっていない。堤防もまだなく、町もない、震災直後と変わらない場所で今も生きている。

 

—今回、リオから手紙をもらうことによって、震災から2年半たった今でも状況は変わってないということを知りました。今の自分自身に何が出来るかわかりませんが、大学の友人と一緒に考え、長い時間をかけてでも、何か手助けしていきたいと思います。

 


リオからの手紙①

大槌町

 

あの日、私は仕事に、上の子は小学校の卒業式を一週間後に控え学校に、下の子は卒園式を2週間後に控え保育園に行きました。

2時46分、あの地震が起こり、即、停電。町の防災放送で大津波警報が発令され、私は仕事の服のままバッグだけ持って下の子を迎えに車で保育園に向かいました。普段なら5分あれば着く距離でしたが、信号機も止まっていたため大渋滞。保育園までなんとか15分で迎えに行くことができ、保育園の子供達はみんな大泣きで大変な事になっていました。とりあえず下の子を連れて次に上の子のいる小学校へ。

小学校の校庭には警察官が沢山いて、小学生はみんな裏山にある体育館に避難したと言われました。道は渋滞。私と下の子は、一度、車から降りて歩きだしましたが、車を少しでも高い場所に置きたくて車に戻り、校庭より3メートルほど高い場所になんとか移動させ、そこから歩いて上の体育館へと向かいました。体育館の駐車場は人でごった返していましたが、上の子を見つけ、じーちゃん、ばーちゃんを見つけることができ、安心した直後に津波はやってきました。

空がとてつもないくらいの砂埃、びっくりして下を見ると、町はすでに海と化していました。帰る家が一瞬にしてなくなってしまったあの時、これからどうしよう・・・と考えていました。少しすると、体育館から毛布が配られましたが、まったく足りず、我が家は一枚ももらえませんでした。余震も強く、外に居ても建物の中にいてもいつ崩れるか・・・

ふと旦那の事を考え、どこかで助かっていてくれれば!!と考えていたら、目の前に、山道を力づくで上がってきた旦那にバッタリ会う事ができました。

旦那は、私の職場が堤防近くだったので、心配でバイクで私の職場に向かう途中に津波が来て、津波に追いかけられながらやっとの思いで逃げてきたようです。その間、もちろん車は渋滞。「走って逃げている人をかいくぐってバイクを飛ばした。50人は抜かしたから、その人達は確実に亡くなっていることだろう。」とのことでした。そして、そのままお寺に向かってバイクを走らせ、途中でバイクを乗り捨てて、地面から高さ3メートル位の場所にある実家のお墓まではい上がったそうです。振り返ったら本堂も全て一瞬にして流されたそうです。その本堂も避難所だった為、中に居た50人近くの人はみんな亡くなりました。

旦那曰く、お祖父さんに呼ばれたと。『こっちに来い!!』と。お祖父さんがお墓から助けてくれたと話しています。本当にあと5秒遅ければ、うちの旦那は死んでいました。そのお墓まで上がると、私たちの避難していた体育館に出るのです。その道でも、怪我をした人、腰を抜かした人達が沢山いて、救助しながら上がってきたみたいです。

その日のうちに家族がそろうなんて本当にあり得ない出来事だったので、神様に感謝しました。それが3時半。沿岸は一本道。その道が津波でやられたから、みんな何十キロも歩いて家族の元に帰ったのです。大槌から宮古まで歩いた人もいます。(約42キロある国道45号線は海岸沿いで津波にやられたので、山道を歩いたそうです)

それから何回も津波が引いて、また来ての繰り返しでした。フッと車を思い出し見に行くと、小学校の一階は水没し、そこに止めてあった車約100台はひっくり返ってクラクションが鳴り続けていました。うちの車は3メートル高い場所に置いたおかげで、タイヤまで浸かっていましたがなんとかまだ乗れると思い、みんなに『危ないから行くな!!』と言われましたが、家が流され、車まで無くなるなんて考えられず、津波が引いたのを確認して急いで走って車を取りに行きました。

旦那は職業上、安否確認、ケガ人の運搬なので忙しかったようです。それから2人の子供を車の中に乗せ、高い安全な場所に連れて待機させました。

リオからの手紙②につづく…