リオからの手紙②

リオの自宅跡

リオの自宅跡

 

それからが地獄絵でした。車から油が漏れだし、ガス管は倒れ、町のあらゆるところで火事が発生。まだ3月。日が沈むのも早く、辺りは暗いのに周りは全て火の車。爆発の音もいろんな場所で起こり、子供達も車の中にいながら、精神的におかしくなっていました。

そんな中、小学生はジャンバーも着ずに避難していて、上の子は薄いジャージだけで寒がっていました。同じクラスの女の子のお父さんが、子供達が可哀想だと津波が引いた時を見計らって、ひっくり返った車の上を走りながら、2階から校舎に入り、3階にあった子供達のジャンバーを取ってきてくれました。あの寒い中、そのジャンバーが本当に有難かったのです。

その後、火事がひどくなり、その小学校にも火がつきました。そして裏山にも火が回り、避難場所の体育館にも火が来るかもしれないとの話になりました。山道が2本あって、下った場所に保証はない。そこも津波が来ていて進めないかもしれない。でも、ここもそのうち火に巻かれるかもしれない。後は各自の判断にお任せします。との役場からの連絡がありました。

あの時ほど死を覚悟したことはありません。私は子供達を焼け死なすわけにはいかないと思い、この爆発と火事から逃れたいとの思いだけで山道を車で下りました。それが夜の9時半。下りながらも、山道の辺りには火が回っていました。下ってみると、町の反対側に津波はきていませんでした。真っ暗な静かな道でした。それから山奥に向かってあてもなく走っていると、一か所だけ薄暗く明りがついている場所を見つけ、その建物に入りました。そこが、私たちが103日間避難所にしていた【かみよ稲穂館】という場所です。バスケットコートの3分の2ぐらいの広さで、その時で600人近くが避難していました。飲み物も食べ物もなく、その日は何も飲まず食わず。初めて口にできたのは次の日の午後、避難所の近所の農家の方がおにぎりを作ってくれて、それを一口。あとは子供に食べさせました。それこそ一個のおにぎりを2人で。飲み物は沢水。でも、本当にありがたかったです。水の有り難さったらないですね。自衛隊が来るのも遅く、子供たちがいる私たち夫婦は2日間ほとんど飲まず食わずでした。

震災の一週間後、中学生にノロウィルスが流行りだし、上の子もかかりました。それを看病していた親もうつってしまって。我が家は上の子、旦那、最後に私がなりました。吐いて下痢しても、ろくに食べ物もなく最悪な状態でしたが、運よくその頃から赤十字のお医者さんが一日一回、回って来てくれて、我が家は全員点滴をしてもらって楽になりました。

お風呂に関しては、頭が気持ち悪くて、近くの川で頭を流しました。初めてお風呂に入れたのは、自衛隊のお風呂。忘れもしません。3月25日です。2週間お風呂に入れないでいました。

子供達は、栄養失調にさせたくなかったので、私の姉に迎えに来てもらい、私の実家に預けました。私は、夫のじーちゃんばーちゃんがいるので、避難所に残りました。

(彼女の実家は栃木県で放射能問題がありましたが、子供に関してはまずは食べて生きる選択をしたそうです。ろくに食べ物も飲み物もなく、彼女は普通又は少しやせ形の体型ですが、103日間の避難所生活で5キロ痩せたそうです。)

それからは何もない毎日でした。子供達の卒業式もなく・・・。我が家は子供2人とも入学が控えていたので、上の子の中学校の制服、鞄、ジャージなど、下の子に至っては、気に入って買ったピンクのランドセル、全て流されました。へその緒も、母子手帳も。でも、命があるから。

後から知りました。下の子の担任の先生と、同級生の友達3人は、保育所から避難する途中、渋滞に巻き込まれて津波で亡くなったのです。一緒に小学校に入学する予定だったのに。上の子の同級生で亡くなった子はいませんが、ミニバス(ミニバスケットボール・小学生が対象)の時の1つ上の子が家ごと流されました。小学校も避難場所から家に帰った子が全て亡くなりました。今、下の子がミニバスをやっています。男女あわせて20人位いますが、10人近くの子の片親が亡くなっています。1人の子は両親亡くしてしまいました。そんな中、子供達は頑張っています。

それから仮設に入り、みんなの助けを受けて今に至っています。私も同じ職場で2人亡くし、近所で3人、友人全て合わせると30人亡くしました。そんなことを考えると、家はなくても、家族が怪我一つなく生きていられたこと、本当に感謝でした。あの頃は、何をするにも涙しか出てきませんでしたが、今は、今を生きるしかないから。

みなさんの支援には本当に感謝しています。支援なくして私たちは生きていけませんでした。でも、テレビで見ている東京は華やかに見えるけど、多分、被災者は今でも心から笑ってテレビは見ていないと思います。今もなお仮設で暮らし、不便な私たちを忘れてしまったのだろうなぁと。

私たちが怖いのは、震災を忘れられること。今は福島しか話が出ないけど・・・ 私たちは、あの時から、何一つ変わっていない。堤防もまだなく、町もない、震災直後と変わらない場所で今も生きている。

 

—今回、リオから手紙をもらうことによって、震災から2年半たった今でも状況は変わってないということを知りました。今の自分自身に何が出来るかわかりませんが、大学の友人と一緒に考え、長い時間をかけてでも、何か手助けしていきたいと思います。