第三十四回 農と言えるニホンへ

近所のお米屋さんが廃業しました。米離れと言われつつも主食としての地位はまだ高く、私自身も毎日お米を口にしていますが、「町のお米屋さん」は少しずつ減っているようです。知人の縁で、お米屋さんの「米刺し」を見せて頂きました。

 

金属製の米刺し。柄は木製。

金属製の米刺し。柄は木製。

 

「米差し」「刺し」とも呼ばれ、俵に刺して米を抜きとる品質検査のための道具です。似たような品の新品がAmazonでも販売されている現役の利器。現在は金属製ですが、かつては竹筒を斜めに鋭く削ったものが用いられていました。竹にはあらかじめ空洞と節があるので、まさにうってつけ、というよりも竹で作られた形が素材を金属に変えて踏襲されているのかも知れません。

米はイネ科の植物ですが、竹も同じくイネ科のタケ亜科に分類され、植物としてあながち遠くない縁があり、生活文化の面でも米の栽培や保存、調理において竹は便利に活用されてきました。収穫した稲を干す稲架、唐棹や扱き箸、千歯扱き、箕といった脱穀と選別の道具、あるいは米の保存や運搬に竹筒を用い、米研ぎには笊、そして炊き上がったご飯を頂くのには竹箸。これらは米と米食における竹の道具の一部分に過ぎませんし、ほかに畑作を含めた農具として、竹や竹籠は長いあいだ主力級の活躍をしてきた歴史があります。私の住んでいる世田谷や周辺の杉並・練馬といった地域でも、半世紀前であればふつうに使われ、そして生産されていたはずのものですが、農業の道具としての地位は以前とは比べものにならないほど衰退したと言えます。

それだけ他に便利な道具が発明されたのは喜ばしいことで、また機械化しなければ農業が生業として成り立たない現状もあるでしょう。竹の仕事の面から見た場合には、当たり前にあった需要の多くがこうしてすっかり消滅したことになります。

後ろ向きに考えても仕方がありませんので、竹の仕事に携わる人間としての私は、いま現在とこれからの時代に求められる仕事をしてゆけば良いと前向きに考えています。むしろ気になるのは「農」自体の未来。農業を志す若い人が増えていると言われる一方で、農業が専業では成り立ちにくい状況がつづいています。自分が口にする食品や暮らしへの関心は高まる一方で、それらを作っている人やその暮らしへの関心は不足がち。具体的にどうすれば良いのか答えは簡単に出ませんが、仮に「政治に期待することは何ですか?」と問われた時には「農」と答える人がもう少し増えてもよいのではと、自分の心配をよそに考えているところです。

 

 

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