第二十三回 竹が余って困っているか?

「竹が増えすぎて困っている」ゆえに、良ければ材料にお使い下さい。これに類するご相談やご提案を時々頂きます。竹が「増えて困る」「余っている」、竹林・竹薮を所有される立場からは、そうした感覚を持たれることも多かろうと思われますが、もの作りの材料として竹を使う立場からすると、管理のなされていないそうした場所の竹では材料にはなりません。仮に材料になり得る場合でも、その場所まで伐りに行って運び出すコストを考慮した際に、果たして自分の仕事として可能なのかという問題があります。また、増えている竹というのは食用の孟宗竹が主であって、その他の工芸材料として有用な品種の竹材が増えている、という感覚もありません。むしろ産地から離れた場所に居る作り手としては、竹材は不足しつつあると感じます。材料になりうる植物としての「竹」そのものの増減については正直なところハッキリ分りませんが、「竹材」については、手に入りにくくなっているケースもある、というのが私の実感です。
 

[左]孟宗竹の筍[中央]筍の需要減衰で増殖する孟宗竹[右]マダケの美竹

竹林を管理して、適切に伐り出し、製材して良い状態で保管された竹が作り手に供給され、その材を使って製品を製造して販売する、それらを通じて得られる利益が竹林の保全に還元される、という流れがよどみなく循環することで全体が機能していたはずですが、利益の得られにくい状況が続き、長年の不活性による悪影響が表面化してきているのが今だと感じます。私の場合、伐る人や製竹する人が廃業したので同じ材料がまた手に入るか分らない、と伝えられることや、あるいは長い材料を配送して頂くことが出来なくなる物流の問題が生じたり、ということがあります。前者の問題は「竹」はあるのに伐って運んで製材する「人」が居ないという構造で、後者は合理化の中で規格に沿わないものは流通にのらないという話。つまり、どちらも人的要因です。誰が悪いという話でもなく、すぐに解決することも難しい問題で、かつ解決する方向に向かっているとも思えないのが現状です。

ですから「竹が余って困っているか?」への私の答えは「ノー」です。しかし、一般には「イエス」とお答えになる方のほうが恐らく多数であろう(あるいは関心すら無い)ことを理解していますし、竹が厄介者扱いされるのも避けられない状況です。竹薮を放置するくらいなら更地化してメガソーラーを、というような未来も有り得ないとは言えません。

竹をこうした残念な立場にしてしまった責任は私にはありません、というのが正直な気持ちです。しかし、竹が貴重で美しく価値ある存在だということが理解され、自ずと大切にされる日が来るよう、自分の仕事を通じて一歩でも近づくように努める、未来に対しての責任は私にもあると考えています。ですから、私に出来ること、私にしか出来ないことを、私なりに実行して参ります。竹という財を人間が失わないために。

 

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