古川三盛 母としての庭

古川三盛 母としての庭

古川三盛 母としての庭

その起源を辿れば、神々の場であった「庭」。
作庭家の古川三盛さんは、庭のそうした
文化性・宗教観を踏まえながらも、
あくまで生活の場であるべきだと言います。
今回は自然と人の営みの接点である里山・棚田に始まり、
花が咲き乱れ果樹が実る庭を通じ、
心安らぐ庭の姿を語っていただきます。

写真=西川公朗

庭は当初「島」と呼ばれた。「島」は神々の出いでます隔絶された場所を意味した。深山の幽谷や滝、遠くに仰ぎ見る峰々。さらには大海原に霞む島々など多々あるが、それら近づき難い遥かな場を身近に設定し、神々への想いを馳せた。それ故、日本の庭には、思想や宗教、作品性が秘められ、確かな文化を生むところとなった。現代、京都の社寺を中心に残された数々の名庭は、そうした原点を持つ。「島」はその後「前栽」と呼ばれるようになり、さらに近世になって庭となったのだが、本来、庭と前栽は別のもの。前栽はその始まりからして、庶民とさほど係わりがあったわけではない。

庭の語源は、おそらく水と関係していて「水みず場ば 」を意味しての言葉ではなかったか。生活に欠かせない水。その水を得る場所といえば湖水か河川、湧水。特に湧水は神秘的で、まさに神の場に思えたであろう。そうした水場が徐々に「島」と重なり、その後の前栽へと移り変わっていったことは想像できる。住居は外敵や風雨から逃れるため、それなりの認識を伴ったが、庭はそうではなかった。庭はすでに場所としてあった。その場所の特異性に気づいただけである。

住居と庭を、私は息子と母親の関係でとらえる。息子は生まれてしばらくは、無意のまま母親に抱かれ、育まれるが、年月を重ねるうち、ふと母親という場があったことを知る。その母親という場が、住居にとっての庭と言えるのだが、今日ではこの二者の関係は、夫婦に喩えられがちだ。建物がまず建ち、その何もない敷地に、何がしかの樹が1本植えられただけで、住空間にささやかなりとも落ち着きが生まれる。それはぶっきらぼうで気楽な一人身の男が妻をめとり、一家を構えたときの状況に似てなくもない。

しかし、庭はガレージやベランダといったものとは本質的に異なる。家に付属した設備でもないし、装飾品でもない。樹を植え、石を置くことを否定はしないが、付属的な飾りではなく、家が建つ以前からある景色。どこまでもあるがままの場所としてありたい。

最近はあまり耳にしなくなったが、住宅販売のキャッチフレーズに「庭付き一戸建て住宅」というのがあった。一般にはこれが庭に対しての認識だったが、私には大変な暴言に聞こえた。そして成金趣味と言われるのも構わず、財に飽かし、庭を物で固めた、こんな大層な溢れんばかりの庭を作って、いったいどうするんだろう、と、他人事ながら心配もした。必要性がなく、ただ持ち込まれたものは、大層であればあるほど存在感が薄く、すぐさま飽きて、どうでもよいものになってしまう。古くからある社寺の侘い。近隣の田園風景といった慣れ親しい景色の方が、無意であるだけに心安まる。庭は住居が住居であるための大切な場、住居より後にできあがることが常であるが、だからこそ母が演じられなくてはならない。庭は演じるものである。

今日、その演じられる場の一つとして里山がある。日本人が千年以上かけて築き上げたこの見事な場所は、かつての水場のような自然そのものではなく二次的自然であるが、掛け替えのない母親の懐のように居心地がよい。

人の営みが築きあげたものであるがゆえに、棚田は限りなく懐かしい。

一昔前まで草地という水田のための別地があり、その草地や畔の草苅りは常々の作業であった。苅られた草はそのまま緑肥にされたり、積み上げられて堆肥にされたが、草地は苅られる度に日光が隔てなく当たるようになり、地面を這う下草も、生きる術を失わず再生する。苅られても苅られても野の花たちは、力強く生き抜き、本来の花の時節とは違っても、人手の透きを見て、この時とばかりいっせいに花を咲かせる。

「里山」は近年になって耳にするようになったが、江戸時代からすでにある言葉で、神々の出でます奥山と、人々は住み分けていた。そうした人の営む里山には、里山固有の生態系が生まれ、二次的自然が定着した。蛇、かえる、いなごやとんぼ、おたまじゃくし。こぶな、めだかは言うまでもないが、鳥類、水棲昆虫まで加えれば多種多様。これらと身近に係わることは、子供時代に還るまでもなく楽しい。

美しく水の張られた水田。それが幾段にも重なった棚田。周辺の傾斜地はいわゆる里山。その雑木林は燃料など日常の生活のためだけでなく、栗や柿など果実が楽しみな樹々も自生し、かぎりなく生活と密着していた。棚田や里山は今日においてはただ懐かしいだけになりかけているが、庭として見ればこれ以上の心魅かれる景色はあるまい。

以前私は、何段もの立派な棚田を壊して、庭にしたことがあった。もちろん頼まれてのことだが、ブルドーザーが石積みを崩し、その石が庭石に変わった。庭はそれなりの出来映えであったが、その出来映えとは裏腹に、棚田であった頃の方が、どれだけ豊かであったか考えさせられた。どんなに庭が立派であっても、その存在感はかつての棚田にはかなわなかった。棚田を支え続けた石積み。その石積みの石一つ一つを積み上げた村民の無意な技に比べれば、庭はあさはかなこしらえもの。遠目に眺める当屋敷も、棚田であった頃の方が何かが踏まえられ立派であった。庭師として私は、二度とこのような馬鹿げたことはやるまい、と思ったものだ。

水張りから苗代、実り、収穫、その後の苅田に至るまで棚田の四季はめまぐるしいが、その棚田を支えた石積みには、城郭などにはない言い難い美がある。それは権威を見せようと思って高く積み上げたものと異なり、水田耕作のための程よい高さ、扇状に重なった広がり、ひたすら垂直に、耕作面積をいかほども狭くしたくないという村民の一心がその構造に窺い知れる。柳宗悦の一連の運動の中に、これらの事象は見られまいが、棚田の石積みに気づけば、その運動の一環としてそれなりの価値は示しえたのではなかったか。

神々は遥かな島々にばかり出でますのではない。こうした棚田には田の神様が。田の神は、山の神、海の神のように人々を戦おののかせたりはしない。どちらかというと滑稽で人臭く、親しみやすい。豊穣を約束し村人を安堵で満ちさせる。私はこうした里山の風景を、庭として取り立てることを何時の頃からか思いめぐらしていた。「島・前栽」とは別の方向にあった「庭」の原点、生活と密着した水場に還って今後も庭作りを試みたい。

里山・棚田を望む庭
奈良県宇陀市・福井邸

棚田の構成・構造、日々の移ろう情景は、
手にとれないが、民藝としても確かであり、庭そのもの。

福井邸縁側より、遠くに広がる山々。庭石は赤みがかった地元の室生石(溶結凝灰岩)を使用。

向渕のシンボル、水晶山が絶妙な位置に。古い石組みには確かな庭師の技が感じられる。

福井邸の庭

以前私が手がけた依藤邸の庭(小誌56号)は、ビオトープとも言える遊び心を表に出した水田が主役であったが、今回の福井邸は水田そのもの、棚田に囲まれている。

庭の依頼を受け、当家を最初に訪れた時は緑一面の初夏。その緑一面の棚田の遥か向こうに美しく重なった二つの山(三郎岳と高峰)が、眺められた。このようなすばらしい景色にあって、今更庭などいらないのでは、と思ったものだ。敷地にはサザンカの古木が根を下ろし、春には深紅の花弁を散らす。今日の「獅子頭」に似ているが、おそらくは古典品種と思われる。集落にはかつての伊勢街道が今も残り、何もかもが古い土地柄であることを語ってくれる。

当地「向渕(むこうぢ)」は、二つの大きな渕池が向かい合っていたことからこの名がついた。そのため用水にはそれほど事欠かず、村は豊かであった。この福井家の側の急な坂道を、かつての藩主(藤堂家)も頻繁に往来し、当家の離れ座敷で休息を摂ったことが伝えられている。その座敷の古い庭園も今回整備できた。背後の山(水晶山)を借景に生かした見事な手法は田舎臭くなく、京都とのつながりの
ある庭師が係わっていたことを憶測させる。向渕に限ることなく昔はどこにでも見られた里の景色であったろうが、消えかけた風景として今日なお此所にあることを尊びたい。

古川三盛

福井邸の庭

棚田を望む東の庭と、水晶山を望む西の庭、異なる景色にふさわしい庭となっている。座敷は奈良の福西工務店が手がけた。

①カキ ②サクラ ③ツツジ ④グミ ⑤マツ ⑥モクセイ ⑦シャクナゲ ⑧ウメ ⑨アセビ ⑩サザンカ ⑪サンゴジュ ⑫ハナミズキ ⑬サルスベリ ⑭モクセイ ⑮ナンテン ⑯モミジ ⑰カシ ⑱ツツジ ⑲ウメモドキ ⑳サザンカ

花と果樹を愛でる庭
奈良県天理市・髙宮邸

生活と密着した庭。
花と実り、そして緑で暮らしを包む花園。
時と場所を経た花たちは、いつか夢見た自由な
世界に足を延ばし、野へと帰る。

庭

織田有楽斎との係わりのある、由緒ある書院とその庭。
庭は古川さんの師・森蘊氏によるもの。
雨露のなか40 年の流れを石組みは静かに語り続ける。

庭
庭

花咲き乱れる庭で果樹に手を伸ばす髙宮さん。
西洋種であろうと日本古来の種であろうと、
大輪であろうと楚々としていようと、花は人の心に響く。

髙宮家の庭

天理市柳本の髙宮邸の庭づくりは昭和46年の正月から始まり、完成したのは同年5月。梅には花が咲き、芽が出て青い実をつけたことを今でも思い出す。

柳本は織田信長の弟、茶人で有名な有楽斎を祖とする土地柄で、髙宮家は代々御典医を務めた。当家の書院はその織田家の離れ座敷を移築したもの。先代・勝(まさる)氏からはこの座敷で、地元にまつわる悲喜こもごもの昔話を聞かせてもらった。夏だったらハモ、冬だったらタラの鍋を御馳走になりながら、遅くなったらそのまま泊めてもらったこともある。患者の病を癒すだけが医師の務めでないように、庭師も庭に携わるだけが仕事ではない。その向こう側の人間と係わってこその意味を教えられた。庭はそのための媒体であり、良い庭というものがあるなら、それは物や形が生み出すのではなく、そこに集まった人たちが作り出すもの。人が集まれば庭は生き生きしてくる。私はまだ三十前の若僧であったが、それからの人生の奥深い妙味を教えられた気がした。

その後20年ほどたって「ヒマキリ小屋」という、ウッドデッキのある建物が新築された。母屋の格式とは別の交遊の場。庭は人の集まりに適うように、広々と石畳を敷き、花壇や菜園、果樹を中心に、あまりとらわれず、気が張らない構成にした。

髙宮家は、ネパール、ブータンといった国の留学生と交流が深く、「ヒマキリ」のヒマはヒマラヤのヒマ(雪)、キリは山の意味であり、「暇義理」でもあるらしい。この場所で彼らは楽しく交流し、今日、高位高官に登った人もいて、髙宮家での良き日が懐かしく思い出されるという。こうした日々の係わりの中にこそ、本来の庭の有様はあると言えるのではないか。

古川三盛

髙宮家の庭

300 坪の広大な敷地は、書院のための庭と、花や果樹中心の石畳の庭を設けた。

①ウメ ②モクセイ ③シュロ ④ライラック ⑤タイサンボク ⑥カシ ⑦モチ ⑧モミジ ⑨ツバキ ⑩ハナミズキ ⑪マツ ⑫マキ ⑬キョウチクトウ ⑭クチナシ ⑮ハギ ⑯サルスベリ ⑰モクレン ⑱ローバイ ⑲アオキ ⑳竹 ㉑アジサイ ㉒ヒイラギ ㉓ナンテン ㉔クス ㉕サクラ ㉖ザクロ ㉗ヤマモモ ㉘メタセコイア ㉙スギ ㉚カイノキ ㉛コデマリ ㉜シダレザクラ ㉝タラヨウ ㉞ナツメ ㉟サザンカ ㊱ナンジャモンジャ ㊲ジューンベリー ㊳ムク ㊴オガタマ ㊵カキ ㊶ブルーベリー ㊷ハナノキ ㊸花壇/アガパンサス、アカンサス、リアトリス、キキョウ、ストケシア、キクイモモドキなど ㊹ユズリハ ㊺ミョウガ ㊻ボンタン ㊼イチジク ㊽イチョウ ㊾シロダモ ㊿バショウ 51.ケンポナシ 52.スモモ 

古川三盛(ふるかわ・みつもり)
1943 年福岡県生まれ。鹿児島大学卒業。北九州で修行後、京都で森蘊氏に師事。70 年に独立。観心寺、延命寺(大阪・河内長野)、天上寺(兵庫・神戸)、法楽寺、全興寺(大阪)、矢田寺・北僧坊・大坊門(奈良・大和郡山)、中宮寺(奈良・斑鳩)、観音寺(京都・福知山)、寂庵(京都)、金峯山寺(奈良・吉野)、新大佛寺(三重・伊賀)、浄教寺など、多くの寺社や個人宅と係わる。著書に『庭の憂』(善本社)がある。

チルチンびと 73号掲載

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