「和」のデザインとは何か 〜利休の小さな茶室が生んだもの

「和」のデザインとは何か 〜利休の小さな茶室が生んだもの

「和」のデザインとは何か
〜利休の小さな茶室が生んだもの

「和」を取り入れた住まいを建てたい……。
いざそう考えてみると、実際にそれはどのような
デザイン・かたちとして立ち現れてくるのでしょう。
畳と障子があれば「和」なのか?
否、板敷きでも、和を感じる空間もあるはずです。
「和」のデザインとは、何なのか。
まず初志に立ち返るべく、歴史を追う必要がありそうです。
その答えを示してくれるのは、2畳という小さな茶室でした。

文=中山 章(建築家) 写真=相原 功

「和は遠くになりにけり」なのか

大学の建築学科でも「床の間」を読めないだけでなく、知らないという学生が増えてきました。身近な生活環境から伝統的「和」の要素が姿を消し、畳を敷きつめた部屋を見たこともないとなればいたし方ありません。そういったものは教科書や博物館で学習するものになってしまったようです。

親から子へと受け継がれてきた住まい方の作法も過去のものになりつつあります。畳を敷きつめた部屋を「座敷」と呼ぶこともなく、ただ漠然と「和室」という言葉だけが使われています。そもそも「洋室・洋間・洋館」などの出現によって、それまで継承されてきた部屋や建物を「和室・和館」と呼ぶようになっただけのことで、それが伝統的な部屋を示す唯一の呼称になってしまうのは寂しいものです。

「和」という概念は、外国からの強い影響が押し寄せるたびに、その相対的な呼称として登場してきました。中世・鎌倉時代は「大仏様」「禅宗様」などの新しい様式が中国からさかんに移入されたために、それまでの日本在来の建築様式を「和様」と呼びました。歴史上、日本は何度か外国からの強い影響を受けました。そのような時を経験するたび、その後を追うように「和様化」の現象が起きました。不思議なもので、自国の伝統や文化が失われそうになると、その反動のように伝統的なものへの関心が高まり、興味を持つ人が増えるようです。

筆者の仕事でも「古民家」の改修や「簡単な茶室」を依頼される機会が増えましたが、それも時代の表れなのかもしれません。どちらの仕事も同じような和風の仕事に見えますが、その内容は意外なほど異なっています。民家の改修の仕事では、かつてのような「古民家」に住んでみたいという方はいても、それは住みやすく改修できることが前提です。民家の古材は手加工ですが、そのような仕事を再現する技術もほとんど残っていません。だからこそ民家のオリジナル部材は貴重なのです。 それに対して「簡単な茶室」を望まれるほとんどの人は、本格的な和風建築へのあこがれを持ち、条件が許すなら建てたいと思っています。現実的には椅子式の生活との兼ね合いや日常生活の大変さを考えての躊躇か、本格的な和風建築や茶室の高額な建設コストによる妥協の結果「簡単な茶室」でお茶を濁すことになるのですが、この本格的な和風建築としてイメージするのが「数寄屋造り」です。江戸時代以来の建築スタイルが今でも生き続けているのです。

現代の和室と呼ばれる部屋は、この「数寄屋造り」の影響を受けていますが、その成り立ちについては漠然とし、言葉の雰囲気だけで語られることも多いようです。そこで、この機会に「数寄屋」と「数寄屋造り」の成り立ちについて、歴史をさかのぼって概観してみようと思います。

短命な「天守閣」

江戸時代までの日本建築は、大別すると「宗教建築」と「住居建築」の2種類でした。宗教建築は「寺院」と「神社」。住居建築として、支配者階層の「寝殿造り」は平安時代の貴族住居、「書院造り(右下図)」は武士の住居です。被支配者階層の住居は、総称して「民家」と呼び「農家」と「町家」に分類されます。もちろん時代や地域の違いにより多少は異なっていますが、基本的にはこれだけの建築タイプだけで事足りてきました。

しかし、お気づきだとは思いますが、例外がありました。その例外の建築はほぼ同じ時期に生まれた二つの建築タイプです。その一つが天守閣に象徴される「城郭建築」で、シンボルとしての天守閣を備えた城郭建築の発案者は織田信長であろうと思われます。

そしてもう一つが千利休による草庵風茶室の「数寄屋」でした。 不思議なことに同じ時期につくられたこの二つの建築タイプは、規模も表現もまったく正反対の建物であり、後の時代の変遷も対照的なものでした。

時代を支配する権力者のための建築は、その権力者や支配者層の存亡に大きく左右されます。城郭建築は戦国武士の象徴であり、安定した江戸時代にはその役目が終わっている建物でした。それを証明したのが、明暦3(1657)年の大火「振袖火事」で焼失した江戸城天守閣です。徳川幕府を象徴する存在ではあっても、その必要性がなければ再建されませんでした。織田信長による安土城の築城以来、約80年でその役目を終えてしまいました。

「数寄屋」の誕生

さて本題の「数寄屋」です。お茶が芸能として盛んになるのは室町時代です。四畳半ほどの小さな場所でお茶が行われるようになったのは、一説には9間(18畳の部屋)の座敷を4分の1に仕切り、屏風などで囲い込んだことが始まりとされます(左下図)。その四畳半が基本になり、茶室を「囲い」と呼ぶ元になったといわれます。四畳半の座敷としてお茶にも使われたと思われる室町時代の建物が、足利義政による慈照寺(銀閣寺) 東求堂の「同仁斎」です(下写真)。出窓のような形の付書院がありますが、床(床の間)はまだありません。この時代の座敷飾りは「唐物荘厳」や「唐様飾り」と呼ばれ、舶来の書画や工芸品をきらびやかに並べたにぎやかなものでした。

右/書院造り 桃山時代に完成した武士階級のための住宅建築。床・棚・付書院・帳台構えなどの座敷飾りで構成される。(※)左/18畳を4分割して生まれた四畳半空間(『建築装飾及意匠の理論並沿革』武田五一、誠文堂工學全集刊行會)


右/書院造り 桃山時代に完成した武士階級のための住宅建築。床・棚・付書院・帳台構えなどの座敷飾りで構成される。(※)左/18畳を4分割して生まれた四畳半空間(『建築装飾及意匠の理論並沿革』武田五一、誠文堂工學全集刊行會)※印図は著者による。『知っておきたい住宅設計の基本 図説日本の住まい』(建築資料研究社)より。

東求堂同仁斎 近世書院の源流となる四畳半

1500年代の中頃、当時の商業中心地・堺の富裕な商人であった武野紹鷗は、その財力で多くの名物茶道具を収集した茶人でした。しかし、名物だけでは満たされないものがあったのか、お茶に「侘び」の美を見いだした人とも言われます。紹鷗の四畳半茶座敷は天井が少し低く、建具寸法も小さくつくられていたようですが、柱は檜の角材で壁は鳥の子紙による張付壁でした。その姿は一般的な座敷とさほど変わりがありませんでした(下図)。その紹鷗の弟子が千利休(宗易)です。織田信長が室町幕府最後の将軍・足利義昭を追放し、信長時代の到来を象徴する年号が天正(1573〜1592)です。この天正という時代が「天主閣」(信長による安土城だけは天主閣と表記されます)と「数寄屋」を生み出した時代でした。

初期の茶室から草庵茶室への発達

当時、お茶の名物道具は大変な高値で取引されていました。これを政治的にも戦術としても活用したのが信長です。お茶道具の「名物狩り」から、お茶を戦功報奨にも利用した「茶のご政道」は、戦国武将たちのお茶への羨望をより強くさせました。その信長が五重6階か五重7階ともいわれる安土の大天主閣をつくったのが天正7(1579)年で、城内の6畳間で茶会が催されたという記録が残っています。この時期、利休は信長の茶頭(註1)三人の一人でしたが、それほど強い影響力はなかったようで、まだ「数寄屋」は登場していません。

3年後の天正10(1582)年6月2日、「本能寺の変」で信長が戦死し、安土城も焼失しました。その時が来るのを待っていたかのように、その数カ月後、利休による草庵風(註2)の佗び茶室「数寄屋」が初めてつくられました。その茶室が利休の遺構と目される、山崎の妙喜庵「待庵」(下写真・上中央図)でした。丸太や竹を用い、荒々しい土壁で塗り上げられた2畳の茶室は、それまでにはない極小の建物でした。権力者にはふさわしくない佇まいですが、その後いっせいに広まり、お茶の座敷といえば「数寄屋」という時代になりました。

「待庵」千利休の傑作。和の真髄は、この2畳にあり。

茶室は三畳台目や二畳台目をへて待庵の2畳へと凝縮したと思われがちですが順序は逆でした。2畳の茶室の影響が、それまでの四畳半茶室をも草庵風の数寄屋へと変化させたのです(上左図)。江戸時代の初期、慶長10年から13年(1605〜1608)の頃、徳川幕府の作事方棟梁を務めた平内家の秘伝書『匠明』に「数寄屋」についての記述が残っています。

「茶ノ湯之座敷ヲ数寄屋ト名付ル事ハ、右同比(筆者注 右同じ頃=天正の関白秀吉の頃)堺ノ宗易云始ル也」というもので、利休の自決後14年から17年後の記録ですが、「数寄屋」の語源は不明です。「好き者(数寄者)の屋」とか、数種類の素材を寄せ集めた「数を寄せた屋」など、諸説あります。

生き続ける「数寄屋造り」

右3点/三渓園臨春閣。元は紀州徳川家の別荘と目される建物。 左2点/堀口捨己設計の「八勝館御幸の間」。いずれも数寄屋づくりの名作である。


右3点/三渓園臨春閣。元は紀州徳川家の別荘と目される建物。 左2点/堀口捨己設計の「八勝館御幸の間」。いずれも数寄屋づくりの名作である。

徳川の時代になると、お茶は上級武士の儀礼に組み込まれ、「数寄屋」は大名屋敷の必需品になりました(下図)。また、元和(1615〜1624)の頃から「数寄屋」の影響を受けた住宅が広くつくられるようになり、桂離宮や三渓園臨春閣(上写真)などに代表される「数寄屋風書院」が生まれました。この新しい建築の登場は、それまでの豪華な書院建築にも劣らない、魅力的な建築表現を獲得したことを意味しています。そのような建物を総称して「数寄屋造り」と呼びます。

大名屋敷にも組み込まれた数寄屋。図は、春日局邸で、色をつけた部分が数寄屋。


大名屋敷にも組み込まれた数寄屋。図は、春日局邸で、色をつけた部分が数寄屋。

本邸の表御殿は檜の白木による書院造りが継承されましたが、別邸や下屋敷などは「数寄屋造り」の建物となり、杉丸太や面皮材、松、栂、皮付きの丸太材などを用い、古色付けも施されました。床柱などに特別な銘木を用いるようになったのも「数寄屋」からの影響でしょう。表御殿は「有形の通り」につくられ、個性的な表現ができませんでした。

それに対して、 桂離宮での「お気に召すままの御普請」(註3)のエピソードが示すように、私邸部分を「数寄屋造り」とすることで個人の趣味を反映させた建物がつくられました。座敷飾りも佗び茶の影響を受け、季節をくみ取り、来客にふさわしい飾り付けとし、家の主人の気持ちを表した簡素なものとなりました。その作法は今日の日本の住まいにも及んでいます。

お茶の作法や制度も時代とともに変化し、「数寄屋造り」にもニューウェーブが登場しました。江戸の中頃には文人趣味の影響から「煎茶数寄屋」(註4)と呼ばれるデザインが広まりました。自然のままの曲木や竹の変種などを積極的に用い、技巧を凝らした細工が特徴の座敷です。表向きは一見質素に見せながら、室内では材料を吟味した手間の掛かるものです。こうした贅沢なつくりの建物に対して、幕府からの禁令が出されたこともありました。明治の初期に来日したアメリカの動物学者E・S・モースの記録に残っている座敷の図(下図)は煎茶数寄屋風の建物で、今日ではあまり注目されていませんが、広く浸透していた建築スタイルでした。

変木、奇木を用い技巧を凝らした煎茶数寄屋。(『日本人の住まい』E.S.モース、八坂書房)


変木、奇木を用い技巧を凝らした煎茶数寄屋。(『日本人の住まい』E.S.モース、八坂書房)

町衆(註5)といわれる市井の中で生まれた「数寄屋」は、近代以後の変化にも柔軟に対応しました。ひとつの例ですが、天皇の地方巡幸の折に宿泊された行在所は、明治から戦前までは「書院造り」風のものでしたが、戦後になると堀口捨己による八勝館御幸の間(昭和25年 上写真)を端緒に、 桂離宮や臨春閣を想わせる「数寄屋造り」の建物が増えました。

そして平成になり、海外からの賓客を迎えるための国家的施設「京都迎賓館」も「数寄屋造り」を元にデザインされ、京都の和風建築を支えてきた伝統技術が遺憾なく発揮されました。小さな茶室「待庵」に始まる「数寄屋」の影響は、400年以上過ぎた今日、国家を象徴する建築にまで影響を与える存在になりました。

「数寄屋」の不思議

しかし、不思議に思えることもあります。天正10年の時点で利休は60歳でした。いかに頑健な体に恵まれても、戦国時代の60歳は相当な高齢だと思われます。その上、天正19年には秀吉から切腹を命じられ自害するのですから、新しい侘び茶の大成者としての活躍期間は晩年のわずか9年間だったのです。その短期間の活動が一世を風靡し、その後の茶の湯や建築にまで大きな影響力を与え、400年後の現代にも伝わっているのです。はたしてそのようなことが起こりえるのでしょうか。

そんなことを考えていた時、ある事実を思いだしました。筆者の少年時代、1960年代のことです。世界中の人びとがともに体験した音楽史上の革命でした。そうです、ビートルズによる新しい音楽とその演奏スタイルやファッションのことです。ビートルズも10年ほどの活動期間の後1970年に解散しましたが、その後の音楽シーンは彼らを無視しては語れないものになり、その音楽のルーツにまで新しい評価が加わりました。その伝説的な影響力は今後も継続すると思われます。

天正の時代も、1960年代も変革の時代だったのでしょう。「数寄屋」を生みだした利休の革新は、十分に起こりえるものだったのです。天正10年に突然出現したようにみえる草庵風茶室「数寄屋」は、まったく突然に生まれたわけではなく、当時の茶人たちのさまざまな活動からの影響もあったでしょう。 ビートルズも同じです。 少年の頃から茶の湯に邁進してきた利休に向かって時代が同調したのだとも見えます。

和の精神の宿る、小さな草庵風数寄屋傑作選

有楽苑如庵 /信長の実弟、織田有楽斎による二畳半台目の茶室。完成は1618年頃(現在は愛知県犬山市に移築)。連子窓に竹を詰め打ちした「有楽窓」、床脇の三角形の地板など、独創性溢れる構成。腰張りには古暦を用いていることから「暦の間」とも言われる。如庵という名称は、有楽斎のクリスチャンネーム「JOHAN」に由来するとも言われる。 大徳寺真珠庵・庭玉軒/茶道・宗和流の祖である金森重近(宗和)好みと伝える二畳台目。室内化された内露地が有名。 大徳寺玉林院・蓑庵/三畳中板入りで、中板のところに炉を上げ台目切りとし、湾曲した中柱を立てた瀟洒な雰囲気をもつ。1742年頃の完成。名の由来は、壁に浮かび上がる長い藁スサが、蓑のように見えたため。

「数寄屋」から「SUKIYA」へ

少し想像をたくましくしてみましょう。今まで見たこともない小さな鄙びた茶室をつくり、一見麁相に見える薄暗い2畳の座敷の中で、新たにデザインされた漆黒の茶碗に鮮やかな緑色のお茶が浮かび上がります。お茶道具に異常な興味を示してきた数寄者は目利きです。あえて狭く薄暗い空間に身を浸らせることで、その感性がより研ぎすまされます。見えにくい薄明かりの中でこそ、より深くものを見ることになるのです。ものの見え方、見る目が変われば、同じお茶でも新鮮に見えてしまいます。

利休の「数寄屋」に招き入れられた人たちが、その世界に魅入られてしまうことは容易に想像できます。世界で最も小さな建物の一つであろう待庵を、国宝と見る鑑識眼はきっと日本人特有のものでしょう。その評価の眼が残っている限りは、この「小さな和」の影響は続いていくでしょう。

日本の伝統文化は多くの場合、理論や思想からではなく形や形式を身体で体験することから始めます。お茶を飲むという行為は世界中にありますが、その行為を「茶の湯・茶道」という形にまでつくりあげた民族はほかにいません。我々の先達は心のあり方を形で表すことに苦心し、その形を「道」という言葉で伝えてきました。数寄屋建築も日本人の心を表したものであるからこそ、400年後の今日にまで伝わり、日本の建築家の遺伝子のようになりました。

かつて数寄屋建築をエレガント・ジャパニーズ・ハウス(ELEGANT JAPANESE HOUSE)と英訳した建築史家がいました。今ではさまざまな日本文化が、日本語のまま世界中に広まっています。「数寄屋」も「SUKIYA」として世界に広めていく時代なのかもしれません。

註1:貴人に仕えて茶事を司った茶の師匠のこと。
註2:田舎屋の趣のある草葺きの小さな家のこと。
註3:八条宮二代目、智忠親王の母、常照院(常子)が残した手紙(消息文)にある「いよいよ御召す御儘に御普請遊ばれ候はんやうの御事と……」から、桂離宮の普請を表す慣用句として用いられる。桂離宮造営時の文書ではあるが、桂離宮造営そのものについてのことかは不明。
註4:茶葉を揉まずに乾燥して粉末にした抹茶と、茶葉を湯に浸して成分を抽出する煎茶では、茶道も大きく異なる。抹茶の茶道に対し、より自由なものと認識されることが多い。
註5:室町時代から戦国時代にかけての、京都の裕福な商工業者。

中山 章(なかやま・あきら)
1975年日本大学工学部建築学科卒業。83年「日本建築セミナー」参加。89年中山章建築研究室開設。住宅、木造建築を中心に設計活動を行い、日本建築の研究を通し、古建築の調査研究・古民家の改修に携わる。2001年より東洋大学建築学科非常勤講師。著書に『知っておきたい住宅設計の基本 図説日本の住まい』(建築資料研究社)『近代建築小辞典』(共著・オーム社)『名句で綴る近代建築史』(共著・井上書院)など。

チルチンびと 75号掲載

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