英文学と英国庭園
英文学と英国庭園
英国式コテッジ・ガーデンの成立まで
ガーデニング王国、イギリス。
王室から庶民まで、庭づくりに熱心な国民性は
どのように育まれたのでしょう。
英国の庭の歴史と文化について、
英文学をテキストに安藤聡さんに教えてもらいました。
文・写真=安藤 聡
ハリー・ポッターの「庭」
英国の社会人類学者ケイト・フォックスは庭園様式と階級の関係について興味深い指摘をしている。上層中産階級(および上流階級)は不規則な要素を含む庭を好み、下層中産階級(および労働者階級)は装飾の多い規則的な庭を好むという。
このことは「ハリー・ポッター」シリーズ第2巻『ハリー・ポッターと秘密の部屋』に描かれる二つの庭を比較するとよく分かる。サリー州の平凡な住宅街に住む典型的な下層中産階級であるダーズリー家の庭は(叔父がハリーにいつも手入れを命じるので)芝生も樹木もつねに刈り込まれ規則性が保たれている。一方で友人ロンの家であるウィーズリー家の広い庭は芝生も雑草も刈り込まれておらず、節くれ立った樹木が林立し、花壇から溢れるように花が咲き乱れている。ダーズリー家の規則的な庭はハリーにとって冷遇され自由を奪われたダーズリー家での居心地の悪い生活の象徴であり、ハリーをいつも歓迎するウィーズリー家の(花壇などある程度規則的な枠組みはあるものの)不規則な自由な庭はハリーにとって理想的な庭のみならず理想的な家庭の象徴なのである。
このウィーズリー家の庭は同時に、英国人にとっての「コテッジ・ガーデン(田舎の小さな家の庭)」の典型的なイメージを示すものでもあると言えよう。日本で〝イングリッシュ・ガーデン〞と呼ばれる庭の形式は、この「コテッジ・ガーデン」を指していることが多い。その成立の歴史を、文学作品に書かれた庭とともに振り返ってみたい。
英国の庭と欧州の庭の歴史
英国式庭園(より正確に言えばイングランド式庭園)の歴史は18世紀前半に始まるが、英国の庭園の歴史は中世まで遡る。中世の修道院には菜園や薬草園などの実用的な庭園と、俗世を離れた精神修行の場としての「囲われた庭園」があり、王族や貴族の邸宅には私的な社交の場として同様に「囲われた庭園」があった。ジェフリー・チョーサーの『カンタベリ物語』(1387頃)の中の1編「商人の話」に語られる老騎士ジャニュアリーの庭はこのような世俗の「囲われた庭園」の一例である。この時代の庭園で現存するものはないので、チョーサーのテクストは中世の庭のイメージを知るための重要な手がかりである。
ルネサンス時代にはイタリア半島から伝来した「イタリア式庭園」が英国内でも造られた。これは半島の中央を山脈が縦断するイタリアの風土を反映して、斜面を活かしテラスと石段によって構成された幾何学的な「整形庭園(フォーマル・ガーデン)」であるが、花よりも樹木や石像などが主役となっている点がその特徴である。英国に現存するこの時期のイタリア式庭園の一つとしてダービーシャー州の〈ハドン・ホール〉を挙げることが出来る。この時代にはまたイングランド発祥の「ノット・ガーデン」(低木をリボンの結び目状にレイアウトする様式)がヨーロッパ諸国に普及した。シェイクスピアの『恋の骨折り損』第1幕にナヴァール王国の王宮のノット・ガーデンの場面がある。
17世紀後半になるとフランスでブルボン王朝が全盛時代を迎え、ヴェルサイユには「太陽王」ルイ14
世が造らせた大庭園が完成する。これは広大な平地に大花壇(パ ーテア)を左右対称に配置した大規
模な整形庭園であり、このような「フランス式庭園」がやがてヨーロッパを席巻し、英国でもこの様式の庭園が(曲がりなりにも)いくつか造られる。現存するものは少ないが、ベッドフォードシャー州の〈レスト・パーク〉がその典型例である。
フランス式庭園よりも小規模な「オランダ式庭園」も17 世紀後半に流行し、英国でも盛んに造園された。オランダ式庭園もまた平地の多いオランダの地形を反映しているが、変化を付けるために人工的に高低差を設けたり水路を配したり、常緑樹の刈り込み(ト ピアリー)を多用するなど、技巧的な要素が顕著になっている。フランス式庭園はフランスの地形の産物であると同時に絶対王政時代の王族・貴族の富や権力の記号でもあり、穏やかな丘陵が不規則に連なるイングランドの地形や、フランスほどの権力の集中を見なかった英国の王族・貴族の財力では実現が困難なものであったが、オランダ式庭園は英国(特にイングランド)各地に数多く造られた。カンブリア州の〈レヴンズ・ホール〉やグロスターシャー州の〈ウェストベリー・コート〉、あるいはロンドン北郊ハムステッドにある〈フェントン・ハウス〉など現存するオランダ式庭園の名作は枚挙に暇がない。ルーシー・M・ボストンの名作ファンタジー『グリーン・ノウの子どもたち』の舞台となるグリーン・ノウ屋敷の庭園も典型的なオランダ式庭園である。
〝自然な〞庭の流行
18世紀中葉に成立した「英国式庭園」は幾何学的な整形庭園ではなく、自然の田園風景の再現を目指す「風景庭園(ランドスケープ・ガーデン)」である。このような庭を最初に提唱したのは庭師でなく文人であった。ジャーナリズムが急速に発達した18世紀前半にジョウゼフ・アディソンやアレグザンダー・ポウプといった当時の文壇の中心人物は、庭園は人為的な技巧よりも自然の多様性やその不規則な美を重視すべきだ、と主張した。このような文人たちの嗜好に最初に反応したのがチャールズ・ブリッジマンやウィリアム・ケントといった造園家で、オクスフォードシャー州の〈ラウシャム・パーク〉がその初期の最高傑作である。これはブリッジマンが整形庭園と風景庭園の折衷的な庭園を造り、ケントがのちにその規則的な枠組みを廃して自然な風景庭園に仕上げたものである。ポウプは1728年の私信でブリッジマンが造園したラウシャムの庭園を絶賛し、1739年にもここを訪れてケントの造園作業を手伝っている。
ケントの庭には「自然の不規則性の再現」と「絵画的な風景の創造」という二つの特徴があった。自然の不規則性とはこの場合、緩やかな斜面がうねるように連なるイングランドの緑なす田園風景を意味する。絵画的風景とは当時英国で人気のあったクロード・ロランが描いたような古典的建造物(の廃墟)を背景とするやはり不規則な自然の風景のことである。前者の特徴はやがて風景庭園の全盛時代を代表する造園家ランスロット・ブラウン(通称「ケイパビリティー・ブラウン」)に引き継がれ、後者は例えばウィルトシャー州の〈スタウアヘッド〉のようなクロードの絵を模して造られた庭園(のちに「ピクチャレスク派」と称される)に発展する。ジェイン・オースティンの『高慢と偏見』で主人公エリザベスが感銘を受けるダーシー氏の邸宅〈ペンバーリー〉はダービーシャー州の〈チャッツワース〉をモデルに描かれ、この庭はブラウンの代表作の一つである。
「コテッジ・ガーデン」の〝発見〞
英国式風景庭園はそれまでのヨーロッパ庭園の行き過ぎた人工性・装飾性に対する反動として始まった。だが風景庭園における人工性・装飾性の排除が行き過ぎになった18世紀末頃、英国の庭園に伝統的な花壇が復活する。ブラウンの後継者を自称するハンフリー・レプトンも晩年には花壇を導入するようになったし、実際に造園した庭よりも著作によって庭園史にその名を残しているJ・C・ラウドンはフォーマルな枠組みに色彩の鮮やかな花を配置する「庭らしい庭」を意味する「ガーデネスク」という概念を提唱した。
ラウドンは19世紀前半に活躍した園芸作家で、個人雑誌『ガーデナーズ・マガジン』や大著『造園事典』などで知られる。生涯にわたって健康に恵まれなかったにもかかわらず、ごく短い睡眠時間で執筆活動を継続し、膨大な量の著作を残した。
ラウドンが提唱する「ガーデネスク」とは規則的な枠組みや装飾的要素を復活させた古典的なスタイルの庭園だが、同時に彼は樹木や草花を本来の習性のままに生育させることを推奨した。これはラウドンが始めた新しいスタイルというよりも、「楽しき(メ リー)イングランド」と呼ばれる英国のルネサンス時代(大まかにエリザベス1世、シェイクスピアの時代)から連綿と続く田舎の小さな家(コテッジ)の庭のスタイルの「発見」であったと言うべきであろう。
王族や貴族、また18世紀以降主流となった上層中産階級の邸宅の庭と違って、この種の庶民のコテッジの庭は庭園史に残っていない。当然のことながら古い時代から保存されている庭というのも存在しない。しかしながら、このようなコテッジの庭のスタイルにはそれほど流行の変遷もなかったであろうし(新種や外来種の植物、また新しい造園技法が少しずつ採り入れられたことはあっただろうが)、ルネサンス時代にもラウドンの時代にも英国中の至るところに普通に存在していた。それは地元産の石などで区切ったある程度規則的な枠組みに各種の植物(主に野菜やハーブなどの実用的なもの、それに加えておそらくは色彩的効果のために選ばれたもの)を自然に不規則に植えた庭であったはずだ。このような庭は例えばストラトフォード=アポン=エイヴォンにあるシェイクスピアの生家や、妻アン・ハサウェイや母メアリー・アーデンの実家など、何カ所かに再現されている。シェイクスピアより2世紀後の小説家トマス・ハーディーのドーセット州にある生家にも英国式コテッジ・ガーデンの一典型とも言う
べき庭が復元されている。水彩画家ヘレン・アリンガムは田舎のコテッジを好んで描き、優れた作品を数多く残したが、その多くは伝統的なコテッジ・ガーデンの記録としても興味深い。
それまで当たり前に存在していたが注目されなかった田舎のコテッジの庭がこの時期に「英国式コテッジ・ガーデン」という新たな庭園様式として確立するに至った経緯には、風景庭園の流行への反動の他に都市郊外に生活する中産階級人口が増加したことが考えられる。読者としてラウドンの執筆活動を支えたのは主にこの階層の人々であった。19世紀後半から20世紀前半にかけて、ラウドンと同様に実作よりも著作によって庭園史に名を残した造園家・園芸作家としてウィリアム・ロビンソンがいる。彼は個人雑誌『ザ・ガーデン』や庭園史、造園法に関する多くの著作で知られる。
英国的〝中庸〞の庭
19世紀後半にはウィリアム・モリスの活躍も顕著であった。詩人・小説家・工芸デザイナー・社会思想家として多岐にわたる業績を残したモリスは、著書としてでなく講演で述べた庭園論によって英国式コテッジ・ガーデンの様式の確立に独自の影響を与えている。モリスが提唱する庭は地元産の石を用いて規則的・幾何学的な枠組みを造ることを基本とし、その土地の生態系に即した植物を自然に不規則に繁茂させるというものであり、規則性と不規則性の対照を特徴とする。モリスが中心となって創始したアーツ&クラフツ運動は室内装飾、陶器、家具、建築ばかりでなく庭園についても一つの流派を形成し、特にこの運動を代表する建築家レジナルド・ブロムフィールドは規則的な枠組みを特徴とするフォーマルな庭こそが英国の「伝統的な」庭であると(風景庭園はその伝統からの逸脱であると)主張した。
一方で前述のロビンソンは人工的な規則的な庭を嫌悪し、自然な不規則な庭こそが正統な英国式庭園であると強調した。この両者の意見の相違は激しい論争に発展したが、実はこの二人の主張を止揚したところに今日の英国式コテッジ・ガーデンのスタイルが成立している。ロビンソンの愛弟子ガートルード・ジークルはコテッジ・ガーデンの伝統に基づいた色彩豊かな庭を提唱し、アーツ&クラフツに属する(つまりモリス、ブロムフィールドの流れを汲む)若い建築家エドウィン・ラティエンズと共作で英国各地に300以上の庭を造った。この二人の庭はロビンソンとアーツ&クラフツの両方の流派を継承したものであり、規則性と不規則性の対照およびその独特の色彩感覚を主な特徴とする。
これもフォックスの指摘だが、英国人は極端なことや真剣すぎることを嫌い、中庸や均衡を重視する。古い伝統を現在に継承する英国式コテッジ・ガーデンのスタイルには、このような国民性が反映されていると言えよう。18世紀に英国式風景庭園が成立した背景にはそれまでの整形庭園への反動があった。特にフランス式庭園はその規模や徹底した規則性、富や権力の誇示といった要素が極端すぎたこともあり、英国には定着しなかったと考えられる。
こうして自然の田園風景(あるいは絵画的に理想化された風景)の再現を目指す英国式風景庭園が成立したが、今度は規則性や人工性の排除というその特徴が極端に行き過ぎとなったため、やがて整形性や人工性を部分的に復活させた庭が再び主流となった。これは先に言及したとおり、イングランドの田舎のコテッジの庭という古いスタイルへの回帰でもあった。
伝統や地域性の重視という点でも英国式コテッジ・ガーデンはすぐれて英国的なものであるが、自然と人工、不規則性と規則性、素朴さと洗練といった二極間での中庸、均衡によって成立しているスタイルだという点においても、この庭園様式は英国に特有のものであり、英国の文化や国民性の産物だと言えるのである。
安藤 聡(あんどう・さとし)
大妻女子大学比較文化学部教授。
著書に『ファンタジーと歴史的危機−英国児童文学の黄金時代』(彩流社)、『ナルニア国物語解読―C・S・ルイスが創造した世界』(彩流社)、『英国庭園を読む―庭をめぐる文学と文化史』(彩流社)ほか。
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