春の陽射しの中、水がほとばしり小川になって流れていく。ブゥーンと低い音がしているなと思ったら、道の脇の畑を打っている。「おーぃ、じゃがいも植えっから来てまー。」とばあちゃんを呼ぶ声がする。天地返しされた黒く湿った畑の土が晴れがましくて、香り立つようだ。暖冬で雪もなかったから桜も早く開くだろう。能登の山間の春だから静かに始まるのはいつものことだけれど、それでも今年は一層ひっそり閑としている。
このひと月、私たちの日常生活を言い様のない不安に陥れている新型コロナウィルス感染症。世界の大都市が封鎖され、東京オリンピックも延期など毎日の状況は刻々と厳しさを増しながら先行きが見えない。人混みを避けたり、手洗い消毒はするものの、安心出来ず気持ちが晴れない。東日本大震災の時の自然災害そのものの被害と原発の放射能という目に見えないものへの恐怖に日本中が包まれた時と同じような気味悪さが巷にあふれている。「あの時は衝動に駆られて、「水源」を確認しに行ったっけ。」とリビングの窓から下の畑に目をやった。(以前このコラムの「水脈」にも書いた。)
下りてみるとちいさな苗が雑草に負けじと上を向いていた。去年の秋自宅をカフェに改修している時、水道屋さんがくれたエンドウ豆を蒔いておいたのだった。晩秋の小豆の収穫にてんやわんやしていた私に「うちの集落で育てているアカエンドや。赤飯にしてもうまいし、夏に採れるし、莢から外すの世話も楽だから」と種を分けてくれた。早速畑の端に4畝ほど蒔いておいたのが冬越しして芽息吹いている。
つる性のエンドウ豆は巻き付きながら生長するので支柱が必要だ。集落のばあちゃんたちは晩秋か春の始めに「エンドの手」になる木や竹を求めて山を歩く。山と言っても分け入って刈るのでなく、林縁の道沿いに繁茂する雑木林の枝を刈る。リョウブなどは背丈程の長さに鉈で刈る。先端をハツって畑に刺す。
「蔭薙ぎ」と呼ばれ、林縁の木々を刈ることで周囲の田んぼに蔭を落とさなくなり稲の生育にも良いという。刈られたところには陽が当たるようになり多様な植物が生える。それを求めて虫や生き物たちもやってくる豊かな循環がある。里山は人が手をいれることで保たれる自然と言うがそのとおりなのだ。
コロナショックで突然大きな車輪が軋みはじめた。人が都市に過密に暮らすことや環境を壊してまで利便性や経済を優先してきたことのへのツケが回って来たようにも感じる。モヤモヤしたニュースが気になりつつも季節は待ってくれない。こんな時こそ足元の自然と流れる時間に合わせて生き物らしく暮らすことが一番落ちつく。そろそろ私も「エンドの手」を採りに行かないと新芽が吹いてきそうだ。蔓が伸び、花を咲かせ豆が実り、みつ豆になる頃には穏やかな日々になっていますようにと祈るばかり。
150株分の「エンドの手」を集めるのはひとしごと。
4月ののがし 土筆の蜜漬け