集落の自然栽培の田んぼはようやく田植えが始まった。まるやまの林縁の木々の葉っぱも一斉に展開し始めた。冬にじっと木の芽の中に閉じこもっていた力がみなぎって、吹き出して、お日様の光へ手を伸ばすように我先にと広がりだした勢いがある。
道端でヨモギを摘んでいると「餅草け?いいことや〜」と腰を曲げてシルバーカーを押すのをやめて座り込んで一緒に摘んでくれる。もう15年くらい前の話だが、集落の90歳くらいのばあちゃんから話を聞いた。「春先によごみ(ヨモギ)が出始めた時分は餅に入れたりする。田植えの頃は忙しくて、よごみを摘んでゴミを取り除くなんて世話なことできんし、餅搗く暇もない。そんな時大きなはウラジロの葉を1~2枚むしってきて団子にした。」普段はヨモギ、農繁期はオヤマボクチと使い分ける昔ながらの知恵があったのだなと思った。一方で家によってはヨモギだけ、オヤマボクチだけという話も聞いた。
ウラジロというのはオヤマボクチという植物の集落の人々の呼び名である。本物のネルの毛布のような触り心地の白い毛に厚く覆われているため、裏が白く見えるのでここでの名前の由来なのだと推察できる。
キク科ヤマボクチ属の多年草。アザミ類らしく、秋には紫色でトゲに覆われた独特な花を咲かせる。山菜としてヤマゴボウと呼ぶ地域もあるが、古来から茸毛(葉の裏に生える繊維)を火起こしの時に火口(ほくち)として利用したことが由来となっている。
本当に火起こしができるのかと思い、葉を乾燥させ炭化させてホクチを作り火打ち石を使い火種を熾してみたこともある。新潟では草団子に入れたり、蕎麦の繋ぎとするところもあると聞くので、人の暮らしに深い関わりを持った植物であることがわかった。
「草餅」という言葉は聞いたことがあるけれど、「餅草」という言葉は耳慣れなかった。前者は草を入れた餅で、後者は餅に入れる草というのは容易に想像がつくのだが、草餅の草の種類について考えたこともなかった。そして餅に草を入れる意味とは、色と香りをつけるためとしか思っていなかった。
そこで餅草について調べると、五節句のうちの一つ、三月三日、雛祭りにハハコグサ(母子草)の若芽を摘んで母子餅という祝いに用いられていたという。ハハコグサの古名であるゴギョウ/オギョウ(御形)の語源は、厄除けのために御形とよばれる人形(ひとがた)を川に流した、雛祭りの古い風習が関係していると考えられている。平安時代ごろから、母と子を杵と臼で搗くのは縁起が悪いということで、ヨモギ変わったと言われているらしい。また母子草は、人日の節句、一月七日の七草粥に入れる春の七草の中にも数えられている。
ハハコグサ(母子草)はキク科ハハコグサ属の越年草である。道端や畑などに見られる小型の草で、全体が白い綿毛に包まれていて白っぽく見え、葉は細いへら形で、春から初夏に細かい黄色い花を密に咲かせる。
そんなことを知ってから毎年七草粥や、雛祭りの菓子作りにハハコグサを探し求めるのだが、能登の春の訪れは遅く、たっぷり餅草にするほどの収穫は得られなかった。
けれども今なら庭先に出てきたオヤマボクチ、まだ夏の手前で硬くなる前のヨモギも手に入る季節だ。餅草によって違う味わいの草団子を拵えてみては?と草を摘みに表に出た。
ヨモギは一番上の柔らかなところだけ摘み取り、たっぷりの水で洗って、少し重曹を加えて茹でる。絞ったら粗く刻んですり鉢で滑らかにあたっておく。
ハハコグサは茎と花を取り除く。オヤマボクチは太い葉脈の筋を取り除いてヨモギと同様に下拵えをする。
上新粉をぬるま湯で練ってから蒸し器で蒸す。布巾ごとこねまとめてから水にとって冷ます。その後それぞれの餅草を加えてよくこねてから、棒状に伸ばし三角棒で玉に切り分ける。
ハハコグサはうす緑色の生地で香り色ともに淡い。オヤマボクチはけがモサモサしていたのが広がり滑らかにつなぎの役割を果たしている感じがする。ヨモギは繊維が硬めだけれど香りや風味、色が濃い。
入れている餅草の量の多少などあるので正確に比較はできないのだけれど、大事なのは毛なのだと思った。餅米で搗いた餅と違って、うるち米の米粉の団子はかみごたえと歯切れの良さがある。何も入れていない白い団子生地より滑らかさと伸びが増す。植物の細やかな毛が団子生地に絡まって粘りを出し、ツナギとなるのだ。きっと今より製粉技術も劣っていた古の時代、餅草のあるなしはもっと食感に違いを生んでいたのかもしれない。
ほのかな色や風味、食感を淡いものから味わっていただくために、ヨモギ、雄山ボクチ、ハハコグサ、プレーンな白い生地の順に串を打つ。田楽箱という重箱に詰めて、自家栽培の能登大納言の粒餡と餅草と説明を添える。
水の引かれた田んぼの畔にむしろを敷いて腰掛ける。田楽箱を開いて草の餅をパクリとやる。さっきまで生えていた餅草も、田んぼのお米も畔で育った小豆も、食べてしまった人と一体になる。体の中を緑の風が吹き抜ける。そして風景の一部となる。