今年もまた黄金色の田んぼに緑の小豆の縁取りが映える「あぜ豆のある風景」が目の前に広がっている。初夏の種まき、猛暑の今年の草刈りなど振り返りながら我ながら「よくやったなぁ」なんて思っている。
夏の終わりからつき始めた黄色いマメ科らしい形の花が、次々と開いては小さくて長い鞘をぶら下げ始める。まだ蕾がある横で茶色く熟して枯れ始める鞘もある。畦にしゃがみ込み、茂った葉を分けて「今年はどれくらい収穫できるかな?」と覗き込む。
すると黄色い花の合間にアリ達がたくさん。隣の株もそのまた隣も群がっている。「これはアブラムシか何か害虫がいるに違いない。」と探してみるが思い当たるものは見つからない。不思議に思ってグッと顔を近づける。老眼鏡もかけてみる。すると何やら花の下の茎の瘤のように膨らんだところに集まってきている。「前にもこんな光景が。」と記憶を辿ると春のワラビ採りだった。ワラビには赤ちゃんの拳みたいな形の葉の下に蜜腺という蜜を分泌するところがある。蜜に寄せつけられてくるアリは、ボディガードの役目をして、ワラビの若葉を害虫から守るのだった。
小さくて黒いのや飴色の、もう少し大きいのと2~3種類いるようだ。アリを払いのけて小豆の茎を舐めてみる、とかすかに甘い。調べてみるとワラビ同様、実りを迎えた小豆を狙うカメムシから護衛してもらうための「小豆の戦略」だとわかった。小豆はどんどん蜜を溢れ出させ、アリは行列を作り、登って蜜をお腹にためて巣まで持ち帰る。結果、守られ収穫できたのが私の小豆。毎年そんなことが起こっていたとはつゆ知らず。カメムシ防除のために農薬を散布する人間に比べて、自然界では他の生き物を利用して、こんな不思議な仕組みで子孫を残そうとする知恵がある。したたかさがある。
したたかな生き物といえばハリガネムシ。水の中でふ化した後、カゲロウなどの水生昆虫に食べられるも、胃を破り体の中に入り込む。カゲロウを食べたカマドウマに乗り移り栄養分を摂取し続け成長する。繁殖時期が近づくと水中に戻るために、カマドウマなど宿主の脳を操り、川に飛び込ませる。寄生虫に都合のよい行動を取らせて宿主を利用する奇妙な習性が知られている。
そこでふと思い当たった。小豆もその旨さや養分、鮮やかな赤い色で人を惹きつけ、人に栽培させているのではないか。能登のばあちゃんたちが「一粒目は鳥に啄ばまれても、二粒目は虫がかじっても、三粒目は人の口に入る」といって種蒔くことも、来年の種にとより良い種子を選別することも、確実に子孫を残すための「戦略」。知らないうちに小豆に操られ、寄生されているのだとしたら…もはや「私が小豆を栽培している」のではない。
小豆の蜜腺にアリが群がるのせいで、草陰で地団駄踏んでいる?カメムシも私も同等のイキモノなのかも知れない。どちらが高等でも下等もなくもっとフラットな関係。お互い小豆の生活史の中のある一つの役割を担う登場人物。一方で同時にカメムシは「カメムシが主人公の生活史」ともリンクしている。己を生きながら、無意識に他の為にも生きている。喰う喰われるという生きとし生けるもののかかわりが網目のようにつながり大いなる環が巡っている。この瞬間、私はこの谷の「命の相関図」の中にいる。
あぜ豆を揺らしながら遠くに見える稲架(はざ)の方に風が渡って行った。「あぁ、あちら側の人みたい」と狐につままれたように独り佇む。急に我に返って、「今の禅問答のような3分間に、実は30年という月日が経っていたりして」と不安になり携帯の自撮りモードで確認する。白髪は3本くらい増えていた。この位なら許容範囲。
【お客様へ】の菓子を召し上がって小豆を蒔きたくなったりしたら、それは「キテいる証」かもしれません。