奥能登曼荼羅とbotani菓

能登にも春がやってきた。三井町は県内でも雪深い地域なのでことさら嬉しい季節の到来である。はずなのに、今年は元旦から慌ただしく日々が過ぎた。

地震で全壊した夫の事務所から古材を救出していた時、ふと見た足元に小さな緑の芽吹きを見つけるまで、そのことを忘れていた。

三月下旬から東京ミッドタウンデザインハブというギャラリーで行われている『Progettazione展』に参加させていただいている。 プロジェッタツィオーネ( Progettazione =「プロジェクトを考えて 実践すること」)とは、英語の「Design」という用語が一般的でなかった第二次大戦後のイタリアで円熟したデザイン哲学・方法論で、消費主義社会において企業の利益を追求するためデザインとは異なり、社会性のある創造と市民全般への教育を使命とする倫理性に富んだものだという。

私たちの奥能登での暮らしを「食」、「農」、「学び」、「祈り」、「いきもの」、「つくる」、「のがし研究所」「能登半島地震」の八つのカテゴリーに分けて展示されている。大きな棚には畑で栽培しているさまざまな豆から、小動物の標本、和菓子の木型、倒壊した建物の瓦礫まで。テーブルにはじいちゃんばあちゃんたちから見聞きした暮らしと土地に根ざした植物たちの暦。

集落の地形模型とその上に浮かぶ透明の円盤には、一年を二十四に分けた季節とその時に生えている有用植物とそれを利用して作る「の菓子」や農作業などが描かれている。それらの植物を採集する場所には模型の上に植物の名前の棒が立てられている。

きっかけは展覧会の企画者で、批評家の多木陽介氏から「活動がさまざまに、複雑に絡み合う様子を曼荼羅に見立てる」というお題をいただいた事から。いつもまるやまの周りを歩きながら、「ウワミズザクラの蕾は膨らんだだろうか」とか「ツノハシバミの実は鳥にたべられていないだろうか」などクラウドのように私の頭の上に浮かんでくる円形の暦。今回の展示全体を一つにまとめる機能としての意味合いもある。

展覧会の会期の中程でギャラリートークが予定されていた。来てくださる方々は、「の菓子図絵」を見たり、キャプションを読む。ゼンマイの綿に触れたり、野草茶の匂いを嗅ぐ、落ち葉の虫食いの穴が奏でる思いがけない音を紙巻オルゴールで聴いたりされるだろう。そして「の菓子ってどんな味?」と思われるだろう。取り残された五感の一つ「味わう」ことができたなら、もっと共感してもらえるかもしれない。否、それはもう観る側、観られる側という線を超えて、大げさにいえば「曼荼羅を身体の一部にしてしまう」というインスタレーションかもしれない。そう思いついたら、じっとしていられなくなって草木を摘みに野山へ足が向かう。

早春のヨモギは枯れ草などゴミを除いて、銅鍋で色よく茹でて琥珀糖に。草餅を思わせる懐かしい香り。

土筆は胞子が詰まった短いものを摘む。抹茶のようなほろ苦さが独特。

桜の塩漬けをもどし、緑の葉をベースに花を散らす。山桜が咲くと里山の春がくる

地震のお見舞いにいただいた水俣のからたち農園さんの無農薬のパール柑をピールにして。

フキノトウはさっと茹でて蜜につける。鼻腔に抜ける蕗の香とほろ苦さが春そのもの

オオバクロモジの枝で淹れたお茶に、新芽を散らした琥珀糖。山の香りが広がる

オニグルミと多良間黒糖のコクのある味わい

秋に収穫した和のブルーベリーと呼ばれるナツハゼはジャムで保存。美しい赤紫色

キウイの原種サルナシを焼酎につけたもの。甘酸っぱく華やかな香りの木の実。

自家栽培している能登大納言も含め10種類の琥珀糖を詰め合わせる。

Botani菓というネーミングは、まるやまの周りの植物を生態学者の伊藤浩二さんとモニタリングして見つけた有用植物でこしらえた菓子という意味。ちょっと漢字のヘンとツクリを想起させるように合体させてみる。オニグルミの樹皮の渋と鉄釘で作ったインクをつけた箸先で書いてロゴにする。

琥珀糖の流し缶とパッケージの缶の大きさを割り出し廃棄部分をなるべく出さないデザイン。着色料を使わなくても「自然の色合いだけでもいいんじゃない?和菓子」と思ったりする。

ギャラリートークの会場のミッドタウン入り。「こんなところにいていいのかしら」と思ったりもしつつpop up storeの準備 。

久しぶりの知人にご挨拶したり、SNSでお友達の方とリアルでお会いしたり、地震のお見舞いやお土産などお気遣いいただく。わざわざ美しい春の一日に、忙しい時間を割いてこの場に足を運んでくださった。そんなみなさんと私たちの間にあるものは何だったのだろう。それぞれ状況は違うけれど「本質的にだいじにしたいこと」がひびき合ってなんとなく、「和(なご)やか」な雰囲気とか「和(にこや)か」な顔で向かい会えていたから「和」なのだろうか。

そんなこんなで私のProgettazione展が終わった。いや、始まったのかもしれないけれど。