薪ストーブ、初体験(1)

ひょんなことから真冬のニュージーランドに行ってきた。南島でホエール・ウォッチングとともにアザラシやアホウドリ、イルカなどの自然観察をしようと思い立ったのだ。
 投宿したのは人口四千人ばかりの小さな町にある小さなホテル。外観は木造風の二階建てでウッディなコテイジ風である。室内は広く、現代的な水回りが備えられていて、一流ホテルの趣だ。
 窓辺に設えられている薪ストーブを見て、僕は歓声をあげた。宿泊者が自分で火を着けるというシステムだった。…

雨漏り

雨漏りが止まらない。
 何度も書いたが変奇館はH鋼を組み合わせ、発泡コンクリートのパネルを張り合わせて天井と壁をこしらえた。屋根はこのパネルの上に厚手の防水シートを敷いただけだ。
 これが新築当時から面白いように雨漏りした。天井や壁に沿ってジワジワと滲むのではなく、滝と見紛うばかり、盛大に室内に噴き出すのだった。…

延段(のべだん)

話は前後するが、変奇館が完成した当時のことだ。庭は五間の三間、つまり十五坪程度の更地であった。
 父、瞳はつてを頼って奥多摩の清酒、澤乃井で知られる小澤酒造株式会社の裏山に分け入り、その辺りに生えていた実生の雑木の苗木を数十本も譲り受けた。
 太いものでも直径五センチほどだっただろうか。辺りはにわかに深山幽谷とまではいかないが、新緑が美しい雑木林になった。…

頑亭邸炎上(3)

さっそくの前言訂正ですみません。
頑亭先生のご子息を“純薫”と書いてしまいましたが、父、瞳の作中では“蓴葷”と書いて“じゅんくん”と読ましていました。ご本人から証言を得ることができました。
 本名、関純さんなので、純君/じゅんくんで蓴葷なのでした。…

頑亭邸炎上(2)

頑亭先生のお宅がほぼ全焼した。貴重な美術品を含む後片付けは神経を使う作業であっただろう。
 脱活乾漆の鯰で知られる頑亭さんは風呂場で鯰の彫刻を乾かしていた。
 ご存じのように漆は湿度がなければ乾かないという不思議な性質をもっている。だから作業工程の一環として風呂場に設えた棚にしばらく乗せておくのだ。この三尺余りの鯰が火災のとき、浴槽に落ちた。その結果、上半身が焼け残り、下半身が黒焦げという鯰の彫刻が出来上がっていた。…

頑亭邸炎上(1)

まだまだ寒さが残る三月二五日、谷保のヤキトリ屋「文蔵」で父、山口瞳と関頑亭先生が飲んでいた。「文蔵」は瞳の著書「居酒屋兆治」のモデルとなった店だ。
 父の作中、純薫として知られる、頑亭さんのご長男が飛び込んできた。頑亭先生のご自宅が火事だというのだ。このときのことを瞳は、不思議なことに純薫は信号無視をしても、交番で停められなかった、と書いている。 一九七七年三月二五日のことだ。当時、頑亭先生は五八歳。頑亭先生はただちに飛び出したが、そのあとが大変であったらしい。もちろん火事は大事件なのだが、問題はそこではなかった。…

待庵・考

テレビのドキュメンタリーをぼんやりと見ていた。テーマは千利休作と伝えら れ、日本最古の茶室建築であるといわれる「待庵」についてだった。この茶室のいわく因縁やら構造やらが重々しく語られていく。それを聞きながら、あれ、この話はどこかで聞いたことがあるなあと気がついた。
それはこの変奇館を設計した高橋公子さんがどこかで書いていた建築論だった。…

床は拭き漆(2)

食堂と隣接する台所の床を拭き漆にすることになった。頑亭先生が小柄な身体をかがめ手際よく漆を塗っていく。
 その返す片手で着古した下着で漆を拭き取る。だから拭き漆なのだ。
 たった一度のこの作業で塗られた漆は三十余年を経たいまでも艶やかで、むしろ味わいを深めている。漆の力、恐るべし、というところだろうか。…

床は拭き漆(1)

壁と天井の本漆喰の上に鮮やかな浅葱色の格子縞ができていた。純白の漆喰とコマイとの化学反応でそういう現象がおきたのだ。これは困ったことになった。頑亭先生は、だからいわないこっちゃない、という感じで憮然としていらっしゃる。
当然のことながら壁は塗直しということになった。この作業は一度ならず二度、三度と行われたと思う。また、どこまで削ったのか、あるいは上塗りだけだったのかは、現場に付き切りというわけではないので、わからない。ただし、作業をやり直す度に浅葱色の格子縞は薄くなり、最後には出現することがなくなった。

さて、いよいよ床の塗装である。幅二間弱、長さが五間ほどの細長い食堂と台所になる部屋だ。そこに厚さが一センチほどの杉の無垢材が敷かれた。何も柾目の高価な杉というわけではない。ごく普通の木目が荒れた材だが、それが素朴な味わいをだしている。当初、何もしないで白木のままの床はそれだけでも、なかなかに魅力的で、これでいいのではと思ったものだが、頑亭先生は、全面を拭き漆にするとおっしゃる。…

コマイ

水没した食堂部分の改修工事を監督する頑亭さんの指示は、床と腰板は無垢材として壁は本漆喰とするというものだった。
最近の漆喰壁は石膏ボードで下地を造り、その上に漆喰を塗ることが主流になっているだろうか。
室町以来の工法に詳しい頑亭さんが、そんなことを許すはずがない。土地の大工さんが作業に入ったとき、たちまち頑亭先生からだめ出しがでた。…

伝統回帰

一九七九年九月四日、変奇館が水没したことは書いた。これにより、食堂と台所、風呂場が使用不能となった。超近代的な現代建築の居間で簡単な電気コンロで煮炊きするという生活がはじまる。まるで避難民のようだ。いや、まさに水害からの避難民であるのだが、町内でも我が家だけというところが、情けない。汚水をたっぷりと吸ったカーペットは断裁されて廃棄処分となり、合板の壁やら作り付けの家具も湿気で膨らんでしまったので撤去された。冷蔵庫と洗濯機は修理がきくというので、これも運び出され、半地下はまっさらな倉庫のようになった。

 これを見るに見かねたのか、父の作中、風貌がドストエフスキーに似ているのでドスト氏として登場する仏教彫刻家の関頑亭先生が、一肌脱ぐことになる。
 頑亭先生は大正八年生まれで、齢九十六にして、いまだにご健在だ。木彫の澤田政廣に師事して脱活乾漆の技法で彫刻を造られるのだが、木造建築として紀伊長島の愛宕一心教会大師堂を設計監督してもいらっしゃる。…

変奇館水没(2)

国立駅の南側は、国分寺崖線と立川崖線に挟まれた平坦な土地だ。二つの崖線は、不思議なことに多摩川の下流から上流に向かって低くなっている。液体は粘度を持っているので、傾斜のゆるやかな土地では流れず、溜まるのだった。それが被害を大きくした。

 ここで、変奇館が1978年9 月に増改築したことにも触れなければならない。水害は丁度、その一年後だった。…