台風一過(2)

国立の変奇館が何度も雨漏りにみまわれて往生したという話は何度も書いているような気がする。しかし、風の被害については、あまりふれていなかったのではないだろうか。
 わが家の親子三人が国立に引っ越してきたのは、僕が中学の二年生になった頃だった。それまで、中学一年生として一年間は東横線の元住吉駅から、いまは住みたい町ナンバーワンの武蔵小杉駅を経由して南武線で谷保駅まで通っていた。そこから徒歩で登校していたのだ。
 この道中だけで生来虚弱な僕はすっかり疲れてしまい、勉強どころではなかった。それはともかくとして、当時から冬になると木枯らしと共に砂塵が舞うことを、僕は両親よりも一年早く知っていたのだ。

 当時は北多摩郡国立町と呼ばれ、感じとしては北関東に属する気候風土ではなかったか。
 つまり冬の木枯らしは上州名物空っ風のたぐいで強風と極度の乾燥から砂塵を舞上げていた。学校の校舎から北の方を見ると、空の半ばまでも真っ赤な砂嵐が覆い尽くすのだった。
 それが一冬に何回かある。翌日は教室の机の上が真っ赤な砂で覆われていて、それを拭くのが、登校した最初の仕事になるのだった。このように北風が強い土地柄だった。そのために、変奇館を増改築した最初の冬に、二階の網戸の一部が吹き飛んでしまった。
 前回書いたように、今年の台風のときは隣家に網戸が落ちたが回収することができた。しかし、この最初のときは、そのままどこまで飛んだのか、行方不明になってしまった。

 増改築されたとき、変奇館の二階の北側は薄い銅板拭きの丸屋根になった。建築家にいわせると、いずれは緑青がわいて、綺麗な青色になるということだった。
 最新式の銅板で紙のように薄くする技術により軽くて美しい曲面を形成できるという。その銅板は最初の冬の北風によって、無残にも剥がれてしまった。建築にも造詣が深い仏教彫刻家の関頑亭先生は、それを見て、建築家は土地の歴史を考えなければ、と嘆かれた。
 それだったら、地元の大工さんに修理してもらえばいいのではないかということで、紹介してもらった職人が丁寧に古典的な厚手の銅板を一枚ずつ叩き出して堅牢に組み合わせ、丸屋根全体を修復してくれたのだった。この銅板は今に至るまで、びくともしない。
 国立市周辺も、一面の畑がすべて宅地開発されたせいか、冬の大砂塵も今となっては昔話となってしまった。