七十二候・第九候
菜虫化蝶(なむしちょうとなる)

3月15日~3月19日頃

 

ごはんをよそううつわ

 

ごはんをよそううつわ

日々の暮らしのぐるりは「当たり前のこと」で成り立っていますが、その「当たり前」は、100年前と現在、現在と100年後ではまったく違ったものであるはずです。
食材でいえば、100年前にはその季節にしか手に入らなかったものも、今では季節を問わずに手に入るようになりました。たとえば、スーパーにならんでいる野菜を見ると、「この野菜って本当はいつが旬なんだっけ?」と考えてしまうこともしばしば。ここでも時間とともに、日常の「当たり前」が変化している様子が見て取れます。
お店がいつでも豊富な品数を揃えてくれていることは一見ありがたいことのようにも思えますが、一方で、その物質的な豊かさが、季節のうつろいに対する人間の鋭敏さ=野性を奪ってしまう可能性もありそうです。

春の旬の素材はいろいろありますが、毎年この時分の定番の献立といえば、タケノコの炊き込みごはん。
タケノコの(不快でない程度の)ほのかなえぐみから季節の訪れを感じ取るのもなかなかオツなものです。
おいしく炊けたタケノコごはんは食欲をそそりますが、手にしっくりなじむ小ぶりの飯碗に品良くよそうのが粋だと思います。いくらたくさん食べたくても、大きなうつわにいっぺんによそうのはちょっと無粋。食べ足りないときは、必要な分だけおかわりすればよいわけで、少し小さめのうつわで「食べるプロセス」を楽しんでみたいものです。
食事というのは食欲を満たすことだけが目的ではないので、その季節にしか出回らない食材をじっくり少しずつ味わうひとときも大事なのではないでしょうか。「量より質」といった感じで。

かつては夏野菜も秋野菜もそれぞれの季節にしか手に入らなかったので、古人にとって、春に春の物を食すことは「当たり前のこと」だったはず。季節を忘れた現代人も、その時季の「当たり前」とは何なのかを今一度見つめ直して、ゆっくり暮らしを営むことが必要かもしれません。
われわれ人間も、自然の一部であることを自覚しておきたいものです。

そして、うつわというのは本来、そんな「当たり前のこと」を楽しむために存在するものです。
殊に、飯碗は日本食の根幹を成すアイテム。手なじみのよいものをきちんと調えておけば、炊き込みごはんはもちろん、基本の白いごはんにも。毎日使うものだから、奇を衒ったものではなく、自身の手と目にしっくりなじむものをえらぶとよいでしょう。
食事もうつわも「当たり前のこと」をきちんとイメージしてみることが大事で、それによって日々の暮らしは地に足付いたものになると思うのです。