延段(のべだん)のその後

変奇館がその威容を現した建設当時、仏教彫刻家で父、山口瞳の畏友であった関頑亭先生が庭に延段を造ってくれたことは、この連載の最初のころに書いた。
  庭に井戸を掘ったときに出てきた握り拳ほどの石が沢山あったので、それを利用したのだ。
 入り口を起点として、上から見たときに「入」る、という字に見えるように敷くのが常道であると頑亭先生に教えられた。このような建築設計や作庭における室町、鎌倉時代からの口伝に詳しい方だった。
 それは日本の気候風土に根ざしたものであり、また非常に合理的な考え方でもあった。頑亭先生がおっしゃっていたことで、僕が覚えているのは、襖絵の柄はすべて閉めたときに動物や植物の数が奇数になるようにするとか、六畳間を二つ繋げてはいけないとか、釘を使わない木組みの家は建てた後、地震で一揺れされた後ではじめてきちんと木組みが正しい位置に落ち着く、などというものだった。
 そうした教えに従えば、土砂崩れや河川の氾濫や津波に襲われることもないだろう。

 瞳は変奇館での四季折々の庭仕事を楽しみにしていて、色々と丹精込めていたが、いわゆる“グリーン・フィンガー”と英語でいう植物栽培の天賦の才はなかったように思う。瞳が庭木を選定すると、頑亭先生ががっかりしたように頭を抱えることが多かった。
 あるとき、瞳は思い立って庭の延段を延伸させることにした。甲州街道に向かう道と見立てて、見よう見まねで延段を造ってみた。また、庭の片隅に置かれた五輪の塔に向かう道を伸段で書き足したのだ。それはひいき目にみれば、「人」が「入」る、と読めないこともない形になったが、大変ぞんざいで乱筆ともいえるものだった。本人も才能のなさに気落ちしている様子だった。
 あたり一面にばらばらと石をまき散らしたようになってしまい、歩くときに蹴躓く有様だった。まっすぐに平で、きちんとエッジのたった延段を敷くのは難しい。

 そのすべての延段も瞳の死後二十五年を経てすっかり庭土に覆われて姿を消してしまった。再開発などすると、城や武家屋敷の遺構が出土するが、そんな塩梅になってしまった。
 今年五月十八日、頑亭先生が享年百一歳で亡くなられた。もっと教えていただきたいことがあったのだが。