口瞳が1976年の「週刊新潮」6月24日号に「風が吹く」というエッセイを書いている。その中に雑木林の作り方というようなことが出てくる。
- 雑木の庭をつくるときは、植木屋が完成された木を持ってくるのではない。三年先のことを考えて持ってくる。-
完成されたというのは、丁寧に剪定されて形が整えられた庭木のことだろうか。
雑木の庭は自然の樹木を楽しむものだから、松、柘植、槇は困る。ヤマボウシ、エゴの木、ガマズミ、リョウブなど花の咲く木が好きだとしている。
- 去年の秋のはじめから、庭をそっくり雑木林にかえてしまった。今年はまだだろうと思っていたヤマボウシの花が咲いた。(中略)ひっそりと咲くのがいい。ひっそりとしているが、言うべきことは言っているという感じがする。こういう感じの娘がいたような気がするが思い出せない。ダリヤやグラジオラスみたいな娘ばかりになってしまった。園芸種ばかりになった。-
エゴの木も満開になって散った。ガマズミはどうも成績がよくなかった。というのが初年度の成績である。
瞳は花が咲いていないときは、それと分からない緑一色の雑木を好んだ。咲いても、花が散って道に落ちているから、それと気がつくような樹木を好んだ。
だから風が吹くのが好きだという。そうすれば、気がつかなかった可憐な花が盛大に舞って自己主張するからなのだった。
とはいうものの、心配がないわけではない。
植えたばかりの若木であるから、風が吹くと倒れてしまうのではないかと気が気でないのだ。
この気ぜわしくせっかちに庭の樹木を全部入れ換えたかと思うと、風が吹けばと願い、そうすると倒れやしないかと心配する。
この矛盾のような一本筋が通っているようなところが瞳の真骨頂なのだった。