第11回 波佐見焼と中尾山 vol.2

波佐見焼と中尾山

 「おお、はるやま君、久しぶり。前より肥えたと?」

 波佐見(長崎県)の中尾山にある陶房青の門柱をくぐると、窯主の吉村聖吾さんが、作陶の手を止めて声をかけてくれます。
 初訪問の際にはひょろひょろと頼りなかった僕も、気づけば堂々たる体躯の五十路(笑)。これほど長きにわたり、ひとつの産地と関わり合えるなんて、とても幸せなことだと思います。
 だから、波佐見特有のやわらかなイントネーションで発せられる「肥えたと?」は、僕にとっては勲章のようなもの。これまでの訪問の記憶を手繰れば、器に対する自分の考え方の基本が、少なからずこの中尾山で育まれたものであることに気付かされます。

波佐見焼と中尾山

 前回の記事で少しだけ触れましたが、江戸時代から生活のためのやきものを作り続けてきた波佐見。
 美術品ではなく、日常雑器を大量に作り、消費地に供給する。そのために陶工たちは手を動かし続ける―――。草創期から400年あまり、そうやって歴史を重ねてきた産地です。
 陶房青は、そういう「波佐見(および中尾山)の流儀」を時代の要請に沿った形で体現する窯元。新しい技術を取り入れ、使い勝手を徹底的に計算した上で生み出された器たちは、現代的なプロダクトと伝統的な手仕事のハイブリッドだと言えるでしょう。

窯主の吉村聖吾さん

 また、それらとは別に、吉村さん個人は、プロダクト的要素を抑えた器も制作。
 その場合は、ろくろや型打ちと言った成型から、絵付けや釉掛けなど加飾全般に至るまでの作業を一人でこなします。「古き良き波佐見」を彷彿とさせるその工程には、一人の作り手として先人たちの仕事に向き合う、原点回帰的な意味合いがあるのかもしれません。
 ひたすら手を動かせば、頭や心は「無」になり、「無」になれば、おのずから手が動くようになる。そのルーティンこそかつての工人たちが目指した境地であり、吉村さんの理想もそれに近いのかな、と僕は勝手に想像しています。

波佐見焼

 僕の店では、陶房青の器(吉村さん個人の仕事含めて)を置いています。
 作家ものに特化する器店が多い中で、僕が窯元の器を作家ものと同等に扱い続けるのは、「作る」という人間くさい所業を生活文化史的な広い視野で俯瞰してみたい、という知的好奇心がどこかにあるからかもしれません。
 個人作家が持つ「個性」も大事にしたいけれど、上で述べたような工人的な「無」という概念も捨てがたい。「現代性」とはたぶん、食卓の上でそのふたつを混在させてゆくことなのでしょう。そういうクロスオーバー的な感覚を養うことによって、現代生活は血が通ったものになるのだと思います。

 僕自身、これからまだまだ肥えそうな予感もありますが、吉村さんをはじめ中尾山の方々には、ぜひとも長いお付き合いをお願いしたいものです。