古書と眠り〜グレゴリオ聖歌とルドゥーテの薔薇

数年ぶりに石田屋(gamadan)さんで展示をさせていただくことになった。石田屋さんは、創業100年にもなる金沢の老舗の寝具店である。今回は、眠りをテーマに展示品を選ばせていただいた。まずは、グレゴリオ聖歌零葉である。グレゴリオ聖歌の調べは、人間の神経のたかぶりを沈め眠りに導くと、近年研究されてきた。ドイツから1600年ごろのものを数葉仕入れるとともに、京都の画廊ぐれごりおのコレクションより6点も、合計9点展示させていただくことがかなった。そのコレクションは、かつてグレゴリオ聖歌を商われていた、故坂田房之助さんによるものである。

展示会の2日目に解説トークを予定していたが、実はその10日ほど前にコロナに感染してしまった私… 咳がひどくガラガラ声治らず、急遽、画廊ぐれごりおのオーナー本郷敦子さん(坂田房之助さんの娘さん)がご主人と駆けつけてくださり、一緒にトークをしてくださった。本当にありがたく幸せな時間だった。

さらには、この度、坂田房之助さんがかつてグレゴリオ聖歌零葉を商われていたとき、お客さまへ配られた手書きの解説の紙をいただいたのだが、そこに書かれた言葉から溢れる作品への深い愛情は、日ごろの自分の在庫への態度を深く反省させるものだった。トークで司会を務めていただいた、gamadan社員板谷麻里沙さんに朗読していただいたその文句を、ここにも以下に記したいと思う。

「一頭の羊の皮から四ページ分しか取れない羊皮紙の上の格調高い手書きのラテン文は多彩で美しい飾り文字に初まる。本文は黒色もしくはイカの墨で作られたセピア色で綴られている。間配られた小題や註は朱色で楽譜の線もまた朱が用いられてある。これ等は教会典礼用の古写本の零葉で十六、十七世紀のものと推定される。好もしい羊皮紙(パーチメント)の味わいは手沢に富んだ古色で一層に深まっている。崇め惜んだつくろいのあともまた心ひかれる。坂田半可識」

さらに、坂田房之助さんと親交のあった民藝運動の柳宗悦が、具体的にどの媒体で、グレゴリオ聖歌への愛情を語っているかということもご教授いただき、改めて、グレゴリオ聖歌零葉の日本の歴史における重要性を再確認できた。それは、昭和17年の雑誌『工藝』109号に記された以下のような言葉である。「…今の楽譜とは違い四線である。如何に文字も記号もそうしてそれらの装飾も色彩も、工藝的な美しさを示すかを、ここによく見られるであろう。この見事なものを用いた当時の信仰生活を想う。こんなものを用いて聖歌を唄うその時代の底知れない美を想う。…グレゴリオ聖楽を聞くと、こんな清浄なこんな深淵な美が、あるのかと悲しいほどの悦びが心にしみ込んでくるのである。人間はこういう音楽に触れつつある限り、死んでもなお幸いなように思わざるを得ない。そこには美の美があるのだ。否、美という尺度で計りきれないものさえあるのだ。」

そして、眠りといえば、この度思い切って展示がかなったものがもうひとつある。それは、「眠り姫」とかけて「薔薇」の図譜、すなわち、ピエール・ジョゼフ・ルドゥーテの図譜である。

この版画は初版のフォリオ版で、描かれているのはガリカ種の薔薇である。ガリカ種は非常に古い栽培品種であり、花色は紫からピンクまで、豊富な葉を持ち、樹はコンパクトで一重咲きから完全八重咲きまで多岐にわたる。野性的な一重の薔薇ももちろん良いが、西欧の薔薇の規範となる図像はやはり八重ではないだろうか。何片あるか数えきれない薔薇の花弁については、リルケをはじめ数々の詩歌に歌い上げられてきた。ここに描かれた桃色の薔薇の大輪の八重の花の迫力、表現、当薔薇図譜の中でも最高の部類と言えるだろう。また、本展示に際し、花弁がバレエの衣装(眠れる森の美女)の生地のようにも見えて選んだ。薔薇図譜は現在大変人気があり、かなりの数が流通しているが、実はその多くは小ぶりな後版である。

実は、私は自分がルドゥーテを取り扱うことになるとは思ってもみなかった。というのも、自分は基本的にドイツ語の図譜(や本)」に徹するべきであり、ルドゥーテはすでにあまりに有名で、自分の守備範囲ではないと思い込んでいたからである。しかし、今回偶然により、ドイツからこの大変素晴らしい図譜を仕入れることがかなった。円安に苦しむ私がユーロで取り引きをするために、日本とドイツを頻繁に行き来される年上の友人小町玲子さんが助けてくださったことも大きかった。

 

2023年10月14日