15世紀の素朴な木版画

ドイツでは、古書オークションのシーズンがまだまだ続いている。今年は現地に赴くことがかなわないので、出来る限りたくさんのオークションを見てみようと決めて、連日カタログや結果をチェックしている。が、他の仕事が忙しい。家事も忙しい。そんななか、ミュンヘンの老舗オークション会社のホームページをふとのぞいてみて、焦った。800点ほどものインキュナブラ零葉コレクションがカタログに掲載されていたのである。

黄金伝説聖母マリア
ドイツの古書オークションで初めて落札したインキュナブラ木版画の中の一枚(アウグスブルクで1480年に刊行されたヤコブス・デ・ヴォラギネの『黄金伝説』より「寺院の中の聖母マリア」、当時彩色)。古色がつき、余白も切り取られてしまって状態は良くないが、個人的に思い入れの深い一葉。

インキュナブラとは何か。それは、ドイツで15世紀半ばに活版印刷が発明されてから1500年までの間に発行された書物のことだ。いわば大量生産品として作られた初めての書物であり、揺籃期印刷本とも呼ばれている。ただし、部数は現代に比べれば極めて少なく、職人の手によって一冊一冊丁寧に作り上げられたもので、実物を目にすると芸術品のように感じられる書物だ。昨日、無声映画「裁かるるジャンヌ(1928年)」を初めて見たのだが、キリストの残酷な受難劇になぞらえられたその映画の冒頭には、聖書に手を置いて信仰の誓いを立てさせられるオルレアンの少女の姿が描かれていた。その聖書には鎖がつけられ、装幀は、木の板に豚革を巻き付け表面一面に型押し細工を施したものと見てとれた。ジャンヌ・ダルクの生きた時代は15世紀であるので、その時代の書物はインキュナブラに相当する。先日亡くなったショーン・コネリーの代表作「薔薇の名前」に出てくるような書物といえばピンとくる人も多いだろうか。いわば、西洋の書物の原型には、日本の和本と正反対の堅牢さが備わっているのであり、この堅牢さを体験すれば、石造りの聖堂が書物に例えられ、テキスト(ロゴス)が絶対的なものであるのもうなずけると思う。

零葉とは、そんなインキュナブラの書物の中の一枚が、切り取られた形で今日まで伝わってきたものである。活字だけのページもあれば、木版の挿絵の入ったページもある。木版の挿絵は素朴なので中世の時代のものかと間違う人も多いようだが、この独特の素朴さが私は好きだ。日本の民芸運動の人々もこの美しさに注目したようで、もしかすると、棟方志功らの版画作品にも影響を与えたのではないかと感じている。

ザクセンのルドルフ
ザクセンのルドルフ『キリストの生涯』(ズヴォレ、1499年)より「衣服を脱がされるキリスト」。当時彩色。

そして、インキュナブラの木版の挿絵には彩色されたものもある。とりわけ、15世紀当時の職人による彩色は貴重である。このたび、当時の出版社で施された彩色ときわめのついたものを落札できた。狭い業界でのあたたかいやりとりを楽しみつつ、落札物が届くのを首を長くして待っているところだ。