夏の始まり百夜の夢

一年コラムをお休みさせていただいた。その間たくさんのことがあった。とはいえ、見晴るかす気持ちで考えてみると、何も変わっていないようにも思う。今私は、再びドイツの古書オークション参加でおおわらわだ。くたくただがなんとか踏ん張っている。いつもは室内探検ばかりの私もこの時期ばかりは、少し大胆に外向きにならざるを得ない。

「オークション」というと、一般の方に持たれる印象が当方の現場とはかなり違うようなので正直戸惑う。会話がどこまでも平行線になるので泣きたくなる。私どもの古書オークション(競売)の世界は本当に小さな小さな地味な世界だ。どうお伝えしたら良いのかわからないのだが・・・お客様がた(Kunden, 英語ではclientsだろうか)との交流はあたたかいもので、また時に、ともに熱く見守ってくださる。オークション会社の同僚(Kollegen)とのやりとりも思いやりに満ち、ホッとするものだ。本の友人(Buecherfreunde)は永遠の友人、あるいは仲間なのだ。

もちろん、ライバルから連絡が入ることもある。探りや意地悪な気持ちからではない。皆、自分が今回何に入札するのか必死で選んでいるので、譲り合い精神も必要となる。いっときの人間のくだらない欲望で競り上がると相場がガタガタになり、業界全体に影響してしまうのだから。

つまり、オークションレコードは永遠に人々の記憶に刻まれるのである。(よく勘違いしている人がいらっしゃるなあと感じるが、「コレクションの散逸」はオークションレコードが人々の記憶に残るかぎり、実は起こらない。オークション会社というものは全ての顧客を把握しているからである。ちなみに、「オークションレコード」とは、例えば、端的には欧州においては、オークション会社がオークション開催ごとに作成する目録と顧客のみに配られる結果一覧の用紙のこととなるだろうかと私は考える。日本の場合は、結果は古書業界の人々の記憶に刻まれるものであり、いずれにせよ「深く刻まれる」ので、双方にそれほど大きな違いはない。)

とにかく、本が好きで仕方がないので、お客さまとともに心の中で叫んだり泣いたり笑ったり大忙しである。頭がすっかりドイツ時間になってしまい、時差ぼけのような感じだが、ひたすら楽しい。しかしまだ一ヶ月近くもこれが続くと思うと、自分の体力も心配だ。そんな時は自然の中に身を置いて深呼吸をするしかない。

さて、冒頭に「昨年と変わっていない」と書いたが、ひとつだけ大事件があった。我が家のベランダの薔薇ロサムンディが今年、初めて、咲き乱れるように咲いた。(このバラについては以前のコラムに書いたとおりです。今はノヴァーリスが咲いている。(でもこちらは二輪だけ。)

薔薇といえば、と、薔薇窓のネガとベタ焼きを思わず出して眺めた。ランスの教会である。懐かしい旅だ。また暗室に入りたくて仕方なくなってきた。

 

薔薇といえば、と、薔薇窓のネガとベタ焼きを思わず出して眺めた。ランスの教会である。懐かしい旅だ。また暗室に入りたくて仕方なくなってきた。

仕事をしすぎ、あまりに体力が落ちてきたので、声楽のP先生にレッスンに来ていただく。ドイツリート(シューベルト)を歌いたいのだが、やはり難しすぎる。『未完成交響楽』のマルタ・エッゲルトのようにセレナーデを歌いたいのに!ま、悲しい現実は置いておいて、声の出しやすいイタリア歌曲で体をほぐす。

香林坊のブックフェアにCさんにお話があって行く。素敵なレコードがたくさん並んでいた。ヘルマン・プライのものがいくつかあり、できる限り買った。(オークションも大変なのに何故こんなに散財をしているのか・・・底知れず経験豊かなCさんは笑っておられた。)

私は幼い頃からプライのおどけた感じが大好きなのだ。今聴くとその表現の深さに改めて感動するようになった。ドイツ的でもありイタリア的でもある。もちろんオーストリア的でもある。声が深く、子供の表現するような喜びもまた聴こえてくる気がする。
たしか20歳のときだったか、初めて1人で渡独しドイツ語学校に通った。ある週末、ミュンヘンの歌劇座の立ち見席でフィガロを見た。廊下に出てふと足元を見ると、白い紙がそこかしこに落ちている。人々が拾い上げて眺めて話をしている。ビラを拾い上げるとこう印刷してあった、「私たちの愛するヘルマン・プライが今日亡くなりました」。

カラーのスライドも出てきた。上の写真と同じ場所である。世の中のアナログカメラの現状はどうなのだろうか。

 

カラーのスライドも出てきた。上の写真と同じ場所である。世の中のアナログカメラの現状はどうなのだろうか。

自分が最も好きなアーティストの公演を生で体験することは出来ないことが多い。人はいつもその人がいた場所に立つことしか出来ない。でもその人はレコードの中に生きていたりする。

Tさんがピアノの調律に来てくださった。お任せしているので、前回からもうそんなに月日が経ったのかとびっくりする。我が家の寄せ集めのオーディオセット(二台のターンテーブルは昨年Kさんが見つけて譲ってくださったもの)にふと目を留められて、「ちょっと聴かせてください」とおっしゃる。調律が終わった後、ショスタコーヴィッチのピアノ五重奏曲をかけてみた。ミキサーもあるため気軽に調節できる。レコードの音って楽しいですね、と夫と3人、みんなで笑った。

その次の日、ずっと気にかかっていたことをHさんにお便りする。あたたかいお返事をくださり、なんと今週末は北欧のバレエ公演に行かれるとのこと。未だ知られざるバレエ革命の100周年を記念するために。いつまでも明るいスウェーデンやノルウェーの夏の長い夜に思わず思いを馳せた。

2022年5月25日