本とわたし(彼我公園と湯川書房)

上京する用事があり、宿の予約を延ばし延ばしにしていると、思いがけず都内はどこも満室になっていた。探しに探して、横浜の馬車道に宿をとることになった。午後にようやく駅に到着し、ホテルへの最寄りの出口を出て脇を見やると、神奈川県立歴史博物館(旧横浜正金銀行本店)のコリント式オーダーが目に飛び込んできた。空は曇って雨が降り始めるなか、1900年代の立派な洋風建築をまぢかに感じたとたん力が湧いてきて、無性に散歩したい気持ちになり、部屋に荷物を置くと、早速横浜公園まで歩いてみることに。なぜかというと、そこに岩亀楼という遊郭がかつてあったというので訪ねてみたいと電車の中でおぼろげに考えていたからである。つい最近、その遊郭を描いた1860年代フランスの版画を見て興味を持ったのだ。

雨風でお辞儀していた彼我公園のチューリップ。
雨風でお辞儀していた彼我公園のチューリップ。

岩亀楼は、幕末期には外国人も訪れる遊郭であり、有名な「ふるあめりかに袖はぬらさじ」事件の舞台である。(註)残された錦絵を見る限り、多くの外国人がそこでもてなしを受け、大変華やかな国際的交流の場であったことが想像できる。建物は現存していないが、石灯籠だけが、横浜公園の一部の日本庭園の中にひっそり置かれていた。岩亀楼は火事で焼け、その跡地に西洋風の公園が作られた。それが今の横浜公園である。その近くの案内看板によれば、横浜公園は、そもそもは「彼我(ひが)公園」と呼ばれていたとのこと。「彼」は外国人、「我」は日本人を指し、双方が利用できた場所であることからそう名付けられた。案内看板は、「彼」と「我」の友好と平和を願って作成されたとあった。「彼我公園」とは実に素敵な名前だと感激して雨のなか立ちつくし、この言葉を知っただけでもここに来て本当に良かったと思った。名前というものは、たまに重要な働きかけをしてくるものだ。

本とわたし 富士川英郎 湯川七二倶楽部、1989年 限定100部(左側は函)
本とわたし 富士川英郎 湯川七二倶楽部、1989年 限定100部(左側は函)

翌日、鎌倉の神奈川県立美術館で湯川書房さんの展覧会(「美しい本−湯川書房の書物と版画」)を見た。晩年の湯川さんが京都の寺町二条の杉本立夫さん(大吉さん)のところによくいらっしゃっていたとき、私もその近くでアルバイトをしていた。大吉さんのカウンターに座られた湯川さんと杉本立夫さん、その周辺の人々の楽しい交流を、今も昨日のように覚えている。湯川さんは私がドイツ文学を勉強しているというと喜んで、富士川英郎先生の話をしてくださった。思えば、そのとき譲っていただいた湯川さんの富士川英郎の本が、私にとって初めての限定本だった。その本をアパートに持って帰って表紙を開いたとき、美しい活字と余白と紙に初めて触れた私は、困惑して読めなかった。コピーにとった富士川英郎の論文は日々愛読していたのだが、その本は読めなかった。その後私は渡独し、限定本の世界のことはすっかり忘れた。博論を書くために帰国してから、オーストリアの「美しい」本の世界が私に迫ってきたが、実物を手に入れるなどとは考えたこともなく、研究し眺めて喜ぶばかりだった。今も私は本を自分のものにして愛でているわけではない。私のところにくる本たちは遅かれ早かれお客様のところへ旅立つわけで、つまりは仕事のために一時的に預かっているだけである。思えば湯川さんの本を所有して読めないと慌てたとき、私は幸せだった。またいつの日か、豊かな気持ちで本を所有してみたい。何かを求めて読むのではなく。

京都で湯川さんと親しく交流された杉本立夫さんの楽しい本

京都で湯川さんと親しく交流された杉本立夫さんの楽しい本。上左と下:泥牛 杉本立夫 湯川書房、平成10年 限定530部特装30部6番 挿画及び前扉著者肉筆画。上右:ドイツ・ミュンヘンで刊行された展覧会図録が湯川書房で特装本に仕立てられたもの、SUGIMOTO, Tatsuo. Daikichi. Sugimoto Tatsuo. Keramik. München, Fred Jahn, 1998.(杉本立夫 大吉 陶芸 ミュンヘン、フレット・ヤーン、1998年) 特装20部6番 著者肉筆挿画。布と和紙が内容とよく調和している。洋装本と和本の伝統を踏まえ、「我」で本づくりにたずさわる喜びが溢れているように思う。

 

(註)1863年に岩亀楼の遊女が外国人の相手を拒み、「露をだにいとう大和の女郎花、ふるあめりかに袖はぬらさじ」の歌を詠んで自殺したという事件。有吉佐和子が小説にしたことで有名になった。

 

2023年5月10日