ひらがなのすみれ

尚榮堂さんは金沢の活版印刷屋さんだ。茨木さんご夫妻と猫のすみれちゃんによって高岡町で営まれてきた。いつも思い出すのは、7年ほども前、名刺を作っていただくため初めてお訪ねした時のこと。小さな白い紙に「すみれ」とひらがなの活字が刻まれたすみれちゃんの名刺が、私の目の前に差し出されたのだ。それは息をのむほど美しかった。感動のあまり、私の名刺もひらがなにしたいと騒いだが、「たかはしまほ」という名前のキャラクターを主張する心構えは持てないと断念。いろいろと試した結果、私の名刺は縦書きの明朝体になった。

名刺の他にも、これまで、書店ラベル(値札)、葉書、封筒や便箋など数々作っていただいてきた。こうして活字のことを少しずつ勉強するうちに、私が最初感動した「すみれ」の活字は、教楷書体であることを知った。驚いたのは、その金属活字が今は稀少と知ったことである。あんなに美しいにもかかわらず。尚榮堂さんの活字の棚に並ぶ教楷書体のことが殊更特別に思えてきた。

そしてこの度、髙橋麻帆書店のしおりを作ることにした。「ありがとうございます」と教楷書体で活字を組んでいただくことに。ついに憧れの書体が使えると思うと嬉しくてわくわくした。ところが一つ問題が。「髙橋麻帆書店」の活字がどうも決まらないのだ。同じ教楷書体でも、ひらがなと違って、「髙橋麻帆書店」がしっくりとこない。以前作った書店ラベル(値札)がゴシックでうまく組めたことなどもあって、私の名前にはどうもゴシックが合うのではとゴシックを入れてみたが、大きさが納得いかない。
あれこれ組んでいただいた挙句、モダンな欧文書体(バンハードメヂウムゴチツク)を入れるとすっきりとおさまった。この活字は、もう50年以上も尚榮堂さんの棚に並んでいたものだそうだ。そもそもは、20世紀初頭にベルリンなどで活躍したドイツ人デザイナー、ルツィアン・ベルンハルトによって造られた書体である。和文の屋号をどの様に入れたら良いのかの答えはまだ出ない。そもそも私の屋号は欧文が先に決まったのだが、そのことと同じ順番になっている。

本の初版初刷りが尊ばれる理由の一つは、原版が磨耗していない真新しい状態なので、紙に鋭く刻印され、美しく刷り上がることだ。活字の世界もまさしく同じである。あまり使われていない活字を紙に刷ると実に美しい。実際目にするとハッとする。この体験を、尚榮堂さんでもさせていただいて本屋として実に幸せだ。

アントン・コーベルガーが1488年に出版した『黄金伝説』の零葉がドイツから届いた。コーベルガーは、『ニュルンベルク年代記』や『第9番目のドイツ語聖書』を出版したことで有名だ。『黄金伝説』には、『第9番目のドイツ語聖書』と同じ活字が使われていた。当時、木版挿絵の板木が別の書物に使い回されることは珍しくなかったが、活字もそうだったのか。活版印刷機が発明されて1500年までの書物は「インキュナブラ(揺籃期本)」呼ばれている。いわば本の赤ちゃんで、本の業界で極めて大事にされている。稀少なのだ。私は、現代の活版印刷も、まるでインキュナブラのように貴重だと感じる。かつて街角にあった工房のほとんどは姿を消し、もう作られていない活字も数多くあるというのだから。

 

2022年7月30日