空っぽの思想

「あ、それは廉価本のところに出すからこちらに置いておいて。」

神保町の修業先では、ロラン・バルトやクリステヴァなどのいわゆる「ポスト構造主義」系現代哲学本が入荷すると、そのような言葉が上司から飛んでくる。バルトなんかはけっこう好きなので、自分が買おうかなと迷うと同時に、「売れると思うのですけれど、どうしてそんな扱いなんですか?」と、あるとき思い切って聞いてみた。「彼らが出てきてから、本がさっぱり売れなくなったんだ。困った人たちだと思ってるんだ。」

このエピソードには二つの説明が必要だろう。まずは古本屋で「廉価本」扱いになる本について。私が学んだ限りでは、廉価本の意味は、その店の専門として取り扱わないという意味である。このようにして、それぞれに専門を分け、同業者と助けあいながら商いをする古本屋の伝統を知ったときは感動した。さらに、「専門にする」というのは、「好きである」という意味でもある。上司から学んで最も良かったことは、「好きなら仕入れなさい、必ず売れるから。」だった。

もう一つの説明。というより注釈。ポスト構造主義以降、本が売れなくなったとはいかに。このことは私自身が古本屋になってから、いよいよ実感しているところだ。若い世代が本を読まないとはよく聞く台詞だが、ポスト構造主義もすでにかなり昔の話。今読まないのは若い世代だけではないだろう。若い人の方がむしろ本らしい本を買っていかれることも多いような気がする。

そもそも「読む」とは何か。「読む」を、本の巻頭から巻末まで一語一語理解することだと信じている人にしばしば出会うが、私にはよくわからない感覚だ。仕事でもないんだし、単に楽しく本を手に取れば良いのに。禁欲的なんだなあと思う。

蓜島亘さんから、「立原道造序論」なる御論考(『感泣亭秋報15号』)が届いた。ソーカル とブリクモンのポスト構造主義批判(『知の欺瞞』)を下敷きに、立原研究の現在を批評されている。固有名詞を換えると自分に身近なテーマにも重なり、楽しく読んだ。アルバイトさんにお手伝いしてもらって、新しくウェブショップを開設したのだが、早速『感泣亭秋報 15号』とソーカル及びブリクモンの著書を取り扱うことにした。感泣亭さんが、「売れるの?」と心配してくださって嬉しかった。昔から読んでみたかった森重敏の『日本文法〜主語と述語』(昭和40年)を手に取る。さっぱり分からない。でもfröhlich だ。市会に、佐藤佐太郎の『歩道』(第1歌集 昭和17年4刷)を含む山が出た。佐藤佐太郎は、私のお習字の先生の先生だ。思わず落札してしまった。表紙の題字がとても立派である。