デザインについて

モビールをつくり始めたばかりの頃は、「なぜ製品にデザインが必要なのか」を深くまで理解していませんでした。当時はむしろデザインを施すことによって、作家性や偶然性が損なわれて、すべての物が均質化されていくと思っていたのです。僕が社会や経済に感じていた違和感の一つは、行き過ぎた合理主義にありました。その風潮とデザインの本質が同じもののように見え、それに対する抵抗として、不合理なモノ、つまり昔見た手づくりの人形や、木の彫り物など機械では大量生産できない意匠を凝らしたモノを、作品ではなく製品として市場へ送り込むことができないかと考えたのです。

しかし、その考えは後にたくさんの壁にぶつかることになりました。合理性を無視したものづくりは、まず生産の部分で行き詰まります。例えば、モビールは紙をカットして製作していますが、そのカットする量が多ければ多いほど時間がかかります。また、細かければ細かいほど、エラーが起きやすく、カットできなくなります。となれば、できるだけ無駄な部分を省いた表現の方が、生産のことだけ考えれば都合が良いわけです。初期の頃はそのことに単純に抵抗をしていました。合理性を無視して、時間がかかることを無闇に行っていたのです。ですが、販路が広がるにつれてそのやり方では次第に無理が出てきました。ただでさえ手づくりのため時間がかかっているのに、デザインを無視したつくりはより時間のロスになります。デザインとは一体何なのか、もう少し深く知る必要がありました。

そんな時、一冊の本と出会います。デザイナー・原研哉氏の著書『デザインのデザイン』(岩波書店、2003年)という本です。その本によれば、デザインの歴史は産業革命の後から始まります。産業が機械化された後に、それに対する反発として生まれたと書かれていました。当時の機械でつくられた製品には粗雑なものが多く、それ以前にあった手仕事による文化を取り戻そうとする動きがデザインの発端であると。これには驚きました。なぜなら、これはまさに僕が最初に抱いていた動機と同じであり、これは逆に「反・デザイン」というべきものかと思っていたからです。著者によれば、デザインの本質とは「ものづくりやコミュニケーションを通して自分たちの世界を生き生きと認識すること」であり、「人間が暮らすことや生きることの意味を、ものづくりのプロセスを通して解釈していこうという意欲」なのです。その後、近代化していく上で、最初に起きた手仕事への回帰を図る運動は敗れ、製品にとって合理化が必要条件になっていったというのです。

原研哉氏の著書『デザインのデザイン』(岩波書店、2003年)
原研哉氏の著書『デザインのデザイン』(岩波書店、2003年)

僕はそこからの歴史しか知らなかったことに気づかされました。デザインの合理化は、誰もが快適に暮らすために必要なプロセスではあったと思います。しかし、モノが過剰に溢れる現代に、これ以上の合理性が果たして必要でしょうか。僕たちが今、2度目の手仕事への回帰の中にいるとすれば、どのようなデザインが求められているかは自ずと見えてきます。必要な合理性を押さえながらも、それを過信するのではなく、不合理なことにもきちんと目を向けていくこと。もちろん今も通過点でしかありませんが、本質は変わることはないのですから、デザインが「人間が暮らすことや生きることの意味」に則したものであることを忘れずに、今後も製品をつくっていけたらと思います。


自分でイラストも描いた「サンタクロースが往く」。デザインの観点からはもっと省略できる部分がありますが、あえて不合理な部分も残しました。