50年ですっかり変わってしまった!

日田杉の森林太平洋戦争が終わった時、我が国の、とくに都市部は焼け野原でした。これを復興するためには大量の木材が必要です。そもそも日本は「木の文化」で、木造の家に暮らしてきました。木と言えば「杉、ヒノキ、松」。戦争で大量に伐採し、「禿山」と化した山々に木を植えよう。雑木林も伐採し、経済的価値が高い木々を植えよう。こうして当地の「日田杉の森林」が出来上がりました。
 
ヒノキや松ではなく杉を植えたのは土地が肥沃だったからですが、同じ杉でも地方によって種類も育て方も異なります。奈良の吉野の杉は、植林する時の苗の本数が全然違います。1ha当り10000本以上(当地は3000本)、苗木が競り合って上に伸びていく過程で枝打ち(木の最上部を除いてそれより下の枝をこまめに切り落とす作業)を繰り返します。そうすると成長が阻害されますから年輪幅が小さくなり、「目の詰まった材」になります。逆に宮崎県の飫肥(おび)地方の杉は非常に成長が早く、年輪幅が大きい材になります。
 
日田杉の森林聞くところによると、吉野杉はそもそも「酒樽」を作るための材で、目の詰まった杉の樽は中の日本酒がほどよく「呼吸」をするのだそうです。また宮崎の飫肥杉は、そもそも「船」を作る材料だったそうです。もちろん現在日本酒メーカーの酒樽は杉材ではありませんし、杉の船も見かけません。当地の杉が「電柱」と「下駄」の材料として植林されたことは前回お話ししましたが、他の地域でも同様で、「50年前の思惑と違った」というより、時代の流れで世の中が変わってしまい、当初の目標(杉の電柱、酒樽、船)そのものが消滅してしまいました。こうした目標に向かって延々と森林の手入れをしていたと考えると、今となってはむしろ滑稽です。
 
50年前といえばちょうど映画「ALWAYS 三丁目の夕日」の時代で、あの映画は当時を思い出させてくれましたが、東京でも寿司屋や蕎麦屋のお兄さん達、バンカラの学生達もみんな下駄履きでした。そういえば、勧進帳の舞台の弁慶は下駄履きです。弁慶の頃から履き継がれてきた下駄が、50年後に消滅しているとは誰も思いもよらなかったことでしょう。
 

profile

田島信太郎 Shintaro Tajima
田島山業株式会社 代表取締役/大分県林業経営者協会理事/(社)九州経済連合会九州次世代林業研究会委員/日田林業500年を考える会会長 1980年慶応義塾大学法学部卒。西武セゾングループ代表室勤務を経て、1988年、父、祖父の急逝に伴い、家業を継ぎ林業経営者となる。日田林業500年目にあたる1991年、子どもたちを対象とした森林環境教育、また学生、社会人の森林ボランティア受入れを開始。「断固森林を守る」取り組みを続けている。

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