7年間、修業を続けて、30歳のときに、店をやめさせてもらいました。だんだん、自分で、やりたくなってきたんですね。初め、とめられましたが、最後は、困ったらいつでも帰っておいで、とやさしく出してくれました。それで、ぼくは、自分が山形なので、東北のものを扱おうと …… 骨董の仕入先というのは、そんなにたくさんあるわけではないので、元・主人とまじわるところはヤメて、東北のほうだけにしたのです。そうすれば、ぶつかるところも少ないかな、と。民芸品 …… タンスなど、通称 “ 煤け文化 ” といわれるような、木がいい味になったのを仕入れて、主に、露天市で売っていました。当時、東郷神社や花園神社で、骨董の露天市が盛んだったんです。
お客さんも、スゴイ多かったんですよ。そのお客さんのほとんどが、外国人。たくさん買ってくれました。そのうち、六本木、住所でいうと、赤坂9丁目あたりに、大きな骨董の店があり、そこをブース貸しにしていたので、やはりそこに、外国人向けの品物を置きました。いい時代でした。バブルと重なって、東京に赴任してきた外国人が増えましたからね。車、通信、金融関係…… 日本人と違って、成績給ですからね。今月は1000 万超えたとか、とんでもない人が、いっぱいいるんですよ。そうすると、自分に、ゴホウビをあげたいんだけどって、相談されたりしましてね。その人たちの好みに合わせた、時代箪笥、車箪笥、舟箪笥、帳場箪笥とか、扱ってました。
一番多かったのは、アメリカ人。そのつぎは、フランスとかイタリアとか。アメリカ人は、とにかく日本にきたら、日曜日はフリーマーケットに行って、骨董のイベントがあったら立ち寄る、という一つの慣習ができてましたね。ドイツ人は、すごくキビシイ目で品物を見るけど、いざ、買うとなると、値切ったりはしない。フランス人は、1万円のものを5千円にならないかとか、平気で、楽しみながら、値切りましたよ。