表と裏

古道具担当が仕入れてきた古本の中に、ちょっと大きめの横長の画帳があった。経年で傷んだ麻布張りの表紙には、墨書きで「ちく佐」。開くと雅な木版画の大和絵が綴られている。藤棚や紅葉、唐橋、流水紋、月、誰が袖、能の装束、郷土玩具などの絵が30枚。どれも繊細で丁寧に作られていて美しい。いつもボロボロの道具ばかり見ているのでひときわきれいに感じる。奥付には神坂雪佳の図案集とある。明治から昭和にかけての琳派の日本画家だ。発行は明治33年、毎月1巻ずつ刊行し、50巻で完結という壮大な出版計画が書かれている。

琳派というと、大胆な構図、余白が金箔で埋め尽くされ、視覚に強く訴えかける華やかなイメージがある。現世のイケイケというか。生のエネルギーに満ちた時代の産物。でも桃山末期から江戸初期にかけては、慶長の大地震などの自然災害が多い大変な時代でもあったようだ。

華やかな琳派。私の生活には無縁だろうかと考えてみると、ひとつだけいつも見ているものがあった。酒井抱一の「十二ケ月花鳥図貼付屏風」の絵はがき。季節の花鳥画が印刷された12枚セットで、台所の隅に月毎に替えている。絵はがきだから場所もとらないし、ピンで留めるだけ。思えばずっと同じことを30年も続けているのだった。

都心に住んでいた頃は、この絵はがきを替えながら、季節を意識して時間の移ろいを大事にしようと思っていた。椿、梅、桜、牡丹、紫陽花と続き、トンボ、向日葵に夏野菜。桔梗、菊、柿。鷺が飛び、雪が降り始める。繰り返される平穏な画題。今ではそれを、ご近所の庭や畑で見ることが出来ている。描かれた時から200年以上も経ってるのに! 画中の景色そのものが、あるところにはまだあるんだなぁ。

目の前に絵はがきの光景があったら、わざわざ飾らなくてもいいのかもしれない、と思う時もある。でも絵はがきを替えることで、雑事に追われて流れがちな気持ちを整えるきっかけにもなっているとも思う。

現実の花や鳥と絵はがきの両方を見ながら、事象の移ろいの中に自分がいることを意識する。そして年と共に、自分がだんだんいい意味で薄まっていくような感じがして、それが私なりの琳派の理解なのかと思う。派手だと思っていた琳派は、その時々の心の在り様で、明るい方からでも地味な方からでも、どちらから見てもよいものなのかもしれない。

季節の変わり目は、心持ちが鈍いことがしばしばある。気を整えて前向きでいられるよう、神坂雪佳の画帖をしばらく眺めていたい、そんな風に思った。

ちく佐の表紙。よい素材で、装飾が極力抑えられているのが、また美しい。
ちく佐の表紙。よい素材で、装飾が極力抑えられているのが、また美しい。