“きれい”の尺度

戦前の日本酒のガラス瓶

月に1度、古道具の出店がある。モノを選ぶのは古道具担当で、私も細かい手伝いをする。少し“きれい”にした方がいいなぁ、と思って埃を払う時は、都度確認する。古道具担当が仕入れる時は、自分が見たままの、そのままの状態がよくて持ち帰るので、うっかり“きれい”にするとまずいことになる。

出店の前日は気が急いている。しかも翌朝はとても早く、早起きのための逆算で用事を済ませなければならないので、余計にバタつく。一見して、要手入れのものは、水洗いできれば水ですすぎ、そうでないものは、拭いたりする。しかし、良かれと思って丁寧にしていると、「何やってるんや、台無しや」と冷たく言われる。

例えば、古ぼけた額入りのオランダ風車の刺繍があった。納戸か屋根裏で打ち捨てられていたのか、埃まみれだ。単なる土産物のようだが? どこが見どころか? 時間に追われながら、異論と疑問が湧く。後で考えれば、何ということもないものが、時を経て醸し出す全体の雰囲気がよい、埃も込みで、ということなのだろう。

戦前の日本酒のガラス瓶の時は、「ちょっとだけきれいに」と言われたので、気をつけて洗っていた。次第に“きれい”な状態になってきたので、これでよいかと確認すると、「あかん、こんなん。どこにでもあるただの瓶になってしもた」。人に頼んでおいて何だ、これはこれでよいではないか、そもそも埃があろうが無かろうが、ものの本質は変わらないのではないか、とか思ったが、言い返しても聞き入れられることはないし、言い争う時間もエネルギーも惜しいので、反論せずにいた。そのまま出店に持って行ったが、売れずに持ち帰った。

また、先日は、白い磁器の皿が1枚置いてあった。何となくぼんやりとしていて、少し曇っている。銀彩の縁も擦れていて、使用感が強い。これも“きれい”にする組、と思って洗うが、くすみは落ちない。眼鏡をはずしてよく見ると、うっすら釉薬のムラがある。これは… 景色になるかどうか、微妙な具合だ。焼き損じだなぁ、誰も目を留めないだろう、と思って古道具担当に見せると、「これは大量にパキッと作れるようになる前のものやと思う」とのこと。「大衆的な西洋皿の普及の始まりの頃、昭和初期くらいの、瀬戸で焼かれたものではないか」。経年のくすみと思って洗い流そうとしていたのは、焼きが甘くて白が出ずに、うっすらとグレーになった部分だった。このように半端な状態のものを、何故仕入れるか?「柔らかい感じがしたから」。大抵の皿は、硬くて冷たい感じなのだそうだ。今回も同じ皿が何枚もあって、その中からこの1枚を選んできたという。

5枚揃いのこぎれいでシンプルな皿のほうが、多くのお客さんには好まれるのになぁ、と思うが、それは定石で、古道具担当の視点は少し違ったところにあった。こうした行き違いは、日々あらゆる場面で繰り返されるが、行き違ってしばらくしてから、あ、この場合はそうでなかった、と、思い直すことがしばしばある。

結局、その皿は「これは時代の境目の資料として、取っておく」と引っ込めてしまい、また店に並べられないものが増えた。

白い磁器の皿