素っ気ないお椀

滋賀県奥永源寺の小椋谷(現在の東近江市蛭谷、君ヶ畑)は、木地師発祥の地、という伝承がある。平安時代、皇位継承争いで退けられた惟喬親王が、小椋谷に隠棲していた時に、村人にろくろ技術を伝授した。そしてこの地から、木地師が材を求めて全国に移住。また、“氏子狩り”といって、この地で木地師の活動を許可、支援、保護、管理を明治になるまで行っていたそうだ。

店番が今までに出会った滋賀の木地ものは、多賀の杓子、朽木の盆や片口、近江八幡の木の数珠、長浜の常喜椀、日野の日野椀など。途絶えてしまったものもあれば、地元の職人さんによって脈々と受け継がれてきたもの、復活したものもある。古道具として店にあるのは、多賀杓子、朽木の木地もの、日野椀。朽木はしっかりと存在感があるが、日野椀は簡略であっさりした形が多い。家の改築時には、真っ先にほかされてしまいそうだ。

大阪在住時に、観光で滋賀に来た時のこと。蛭谷の木地師資料館に向かって、美しい山と川を左手にレンタカーを走らせていた。途中、永源寺を拝観した時、その門前に土産物屋と道具屋があった。当然古道具担当(この時はまだ単なる道具好き)は入る。そしてなかなか出てこない。「自分の目当てのものはもちろん、そうでないものも、店主の縁で集まってきたのだから、自分との繋がりを探していく。そうやって見ていくと、モノだけからではなくて、モノにまつわる背景からも、新しい視点が奥の方から立ち上がって来る。だから時間は必要で、自分の見方もそうやって改編させていく」(本人談)という信条の元、見まくる。いつものことだが、長い。長すぎる――。1時間近くして(本人は35分と主張)、紙袋を下げて車に戻ってきた。それが日野椀だった。塗りが薄く、見た感じ何ということもない。簡略な形はちょっと可愛らしいが、古ぼけてる…。この地域の庶民の器で、江戸時代には日野の近江商人が各地に持って行って売ったのだそうだ。古道具担当は、地のものがゲット出来て満足気だ。

滋賀県民となってから、日野の近江日野商人館に行った時に、日野椀の材は、山陰の方からも取り寄せた、と聞いた。江戸時代にそんな遠くから? 近江は山に囲まれ、木も豊富なのに、と思ったが、後に店のお客さんなどから伺った話では、近江は古くから都や伊勢に木材を供出していたので、逆に品薄だったとのこと。店番の母方の祖母の縁戚には小椋姓があり、木工関連の家業ではないと思うが、因幡の材とか、木地師は小椋姓が多いとか聞くと、親近感が増す。先祖もこんな椀で食事をしていたのだろうか。

もっとも初期の日野椀は、高台が高い祭器のような形だったというから、特別なものだったのだろう。江戸時代には近江商人が広く売り歩いたというが、行商先の木地師に日野椀を作らせていた、という説もあり、商社的な感じが、いかにも近江商人らしい気もする。

古くからあると言われる日野椀。広まったり廃れたりを繰り返し、今では現在の生活でも扱いやすい漆器として、復活している。店にある素っ気ない日野椀は、近代がやってくる前、陽の当たっていたひと時の、微かな名残りなのかもしれない。

 

日野椀

 

参考:「全国の山々を駆けめぐった木地師の里を訪ねて」岸本治二