瓢箪

廊下の隅の柱に、古道具担当が仕入れてきた瓢箪が掛かっている。在庫として置かれているのではなく掛けてあるところを見るとお気に入りらしいが、真っ黒だ。あまりの黒さに「何これ?何で?」と言ったら、「ええやろー」と、わざわざこれを選んできたのだと語る。

古い布が瓢箪の口に詰められ、くびれに紐が巻き付けられている。囲炉裏の近くに置かれていて燻されたのだろうか、触るのが憚られるほど黒いが、持ってみるととても軽い。高さ32cm、上径35cm、くびれ34cm、下径54cm。測ってみるとくびれはほとんど無い。水汲みなどに使っていたのだろうか。

古道具担当は「昔から瓢箪はアフリカでもどこでもあるし、器として使われている。利休にもある。これは人の手が最低限しか加えられていないところがいい」と言うが、自分としてはよくわからず、話はそれで終わった。

日々廊下に出れば目に入る瓢箪。気にせずに過ごしていたが、ある時掃除をしていて、ふと、あれ?と思った。おおらかでいい感じかも…。目の前の瓢箪からは遠いテイストとは思ったが、本棚の『表千家茶道美術展1983年』のカタログを見てみた。元伯宗旦の瓢箪「ふくべ花入」が載っている。枯れた感じの薄茶色で、くびれはゆるやか。やや素っ気なくスッと立っているからか、銘鷺。口は整えられておらずざくざく、表面はざらっとしていて斑点が景色になっている(よく言えば)。このシブさが“侘び”かなぁ、と思うけれど、箱書きが無かったら目を留める人は少なそうだ。

瓢箪はやっぱりわからないなぁ、と思っていたら、瓢箪が描かれている好きな絵を思い出した。

まずは「瓢鮎図」(如拙筆 室町時代 京都・退蔵院)。瓢箪でなまずを捕まえようとする男と32人の禅僧の文や賛が描かれた水墨画。20代半ばの時に見ていいなぁと思ったが、意味は分からなかった。図録を読んでも、図書館に調べに行ってもさっぱり。そのまま時が過ぎ、たまに思い出しては本を探して読むが進展せず。数年前にようやく瓢箪もなまずも心だという解釈があることを知った。

心のように動くものを無理に摑まえることはできないから、無為であるように、ということなのだろうか。禅宗の解説は用語も難解で判然としない。自分に戻って考えてみると、そもそも瓢箪の黒さに引いている時点で表面的な事柄に足を捕られていると言えば、そうかもしれない。表に見えていることは本質の現れではあるが、その先にある事柄の扱いでモノの魅力は変わってくる。そんなことを思いながら「瓢鮎図」の宿題は続く。

もう1枚は「納涼図屏風」(久隅守景筆 江戸時代 東京国立博物館)。瓢箪がぶら下がる棚の下で、家族が夕涼みをしている穏やかな絵だ。いいなぁ、こんなひと時。しみじみ見入ってしまう。

瓢箪は今日も廊下にある。人が来てもほとんど気付かれはしない。でも、晴れた日には縁側からの光できれいに見えることもある。ぽわんとした空気を醸し出すうちの瓢箪は、まずはこれでいいのかもしれない。

*参考 「瓢鮎図・再考」芳澤勝弘 花園大学国際禅学研究所

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