ウバユリとカノコユリ

何と風変わりな名前を持った花だろうか、姥百合(ウバユリ)は。山に咲いているのを見つけると異様な喜びを覚えるのは、子供の時から変わらない。花弁は、白に緑がかって花らしくなく、不器用そうに重なっている。うっそうとした緑の中で目立たないが、いったん目につくと取りつかれたように見てしまう。

本屋になってから、シーボルトが日本から西欧に持ち帰った百合の中に、この百合も含まれていたことを知った。それは『フロラ・ヤポニカ』の第14図で、その解説には「このユリは日本中に」あるが、「生育地には群生するとはいえ、どこでも稀な花」と記されている(『日本植物誌』八坂書房新装版、2000年より)。どこにでもあるが珍しいとは、なんて意味深い言葉だろうと感じ入った。私の興奮と裏腹に、シーボルト本の図譜はいつも冷静だ。

シーボルトが、日本から西洋に持ち帰った最初の百合は、鹿の子百合である。『フロラ・ヤポニカ』では第12図。キリスト教絵画に多く描かれてきたような白いマドンナリリーとは全く違う東洋の百合に、西洋の人びとは熱狂した。明治後期から大正時代にかけての園芸本を読むと、この百合が海外向けに盛んに輸出されていたことがわかる。(例えば、髙橋久四郎の『園藝各論』(明治43年)には、「我邦にて培養せらる丶こと多きのみならず賞花用として近頃外國に其球根の輸出せらる丶もの頗る多く従つて農家の輸出を目的として栽培するもの甚だ多きに至れり」とある。)

鹿の子百合が、ヨーロッパで初めて開花したのは1832年。その脇には、固唾を飲んでこの花の開くさまを見守る人々の姿があったという。造園家パクストンの鹿の子百合図譜を見ると、西洋園芸界のこの百合への熱狂が伝わって来るような気がする。パクストンが、この図譜を収めた書物『パクストン植物学雑誌』を発行したのは、1834年から1849年にかけて。温室の設計術を極めた彼は、その二年後、第一回ロンドン万国博覧会で水晶宮を設計することになる。

ドイツから同業者のBさんが、奥さんと休暇で金沢へ来た。仕事の間に観光案内しながら、目録を見てもらって本屋業の苦労を話し合う。神保町で働いていた時、日々目録用のデータを取ったコレクションが、海を越えて最近彼の元に行ったことがわかった。私が本屋になることを決心した素晴らしいコレクション、日本国内に行き場所はあるのかなと時折思い出していた。

いくら良い物でも、その取り扱いができる人の元でなければ、活かされない。「稀なもの」はそこかしこにあるのだが、物は人間が守ってやるような儚い存在ではもともとなくて、おのずから、最もふさわしいところへ行く。