内から外へ

大学院生のころ、二週間に一度ほど、当時60歳くらいのオーストリア女性の方と会いお茶をする時間を持っていた。私にとってはドイツ語会話力を磨くためであり、その方にとっては気晴らしのためであったかと思う。その方は当時、京都に住んでいらした。今忙しく働く身になって思うに、つくづくかけがえのない時間であった。共通の趣味の話題をいつも二時間ほど。会話のテーマの多くは、ドイツ(オーストリア)文学の私の研究テーマや美術や工芸、料理などなど。場所は、大抵は三条河原町のデパートに入っていた紅茶専門店マリアージュ・フレール。パリの店舗よりそこのケーキは美味しいというのが、その方のよくおっしゃっていたことだった。マリアージュは今は京都からなくなってしまったので、そのお店で焼かれていたあのケーキが懐かしい。

その方は一度面白いことをおっしゃった。

「本の背表紙を眺めることは素晴らしいことです」
「私は本棚に並んでいる本の背表紙を眺めることが大好きなのです」
「背表紙から空想を膨らませること、それはとてつもなく大切なことなのです」

私は即座に強いシンパシーを感じ、そしてその表現の素晴らしさにクラクラした。どこかで聞いたような言い回しでもあるが、その方の体験の詰まった言葉だ。その瞬間を思い巡らし、思い出をかみしめることは、その後私の人生にとって大切な時間である。

神田の古本屋さんで働いていたとき、古典のテキスト棚(ロエブ叢書など)を見にいらっしゃるお客様がたの姿が好きだった。サラリーマンの方々が退職して、人生の最後の時間に究極の古典(アエネーイスなど)を読んでみたいと目を輝かせていらっしゃる。歳とった方だけでなく、ラテン語を学んでいる小学生が、ご両親と地方からいらっしゃったこともあり印象深かった。その後、神保町という場所は実は小さいお子さまも多い場所なのだと老舗の方に聞いたことがある。権威主義ではなく、本への愛情、本の伝統への敬意が、お店中あるいは書店街中に溢れるあの瞬間。テキストを全て理解しようと無理をする必要はない。本は人と違ってこちらが中身を「正しく」知らなくても怒らない。そっと本棚に収まって、優しく人生に寄り添う。

この内側に対する外側はどこにあるか?
花びらがいたまないように、どのような麻布(リネン)をかけてやればよいか。
(ライナー・マリーア・リルケ「薔薇の内側」)