第7回 戸隠神社五社で 静けさにタッチ!

 作者注:歩く時にカメラを忘れたので過去に撮った写真が入っています。
 

 今年三度目の戸隠。一回目は友達とキャンプ。二回目は思い立って一人でキャンプ。そして三回目も・・といきたいところだったが、戸隠山にはもう白く雪がついている季節。それまでは車でしか訪れたことがなかった戸隠神社五社を歩いて巡ってみた。戸隠の神様には今までにいろんなことを教えてもらっていた。その時に必要なことを、言葉のような気配のようなエネルギーのようなもので伝えてくれるのだ。


 「宝光社」に車を停めてスタートした。ここはとてもしっとりとした古い空気。鏡池までの道は車道を1時間ほど上っていく。カラマツの葉落でできたオレンジ色の敷物の上をこっそりと歩く。葉を落としきって冬へ向かっている木々は、本当に静かでお喋りをしない。こちら側ががやがやうるさいと、その音が余計にうるさく感じられる。
 

photo1 奥社から戸隠山(9月)
photo1:奥社から戸隠山(9月)
photo2 奥社参道の杉並木(9月)
photo2:奥社参道の杉並木(9月)

 

photo3 鏡池。戸隠山が映る(6月)
photo3:鏡池。
戸隠山が映る(6月)

 「鏡池」には、ごつごつした肌に白い雪をまとった、戸隠山の山並みが映り込んでいた。水の波紋がゆっくりとその姿を撫でて乱す。太陽の光はもう夕方の赤に近づいていた。足早に「奥の院」を目指す。木道にはところどころ雪がついていた。歩いていないと体に寒さが届いてくる。風も音もなく、道は木肌だけの裸の状態で微動だにしない木に囲まれていた。まっすぐ天にのびるツガの木に気がついてふと立ち止まると、そこには動きというものがまるでなくて、時間が止まったような感覚にとらわれた。
  

 

 その時やっと、私の中でなぜここを歩こうとしていたのか分かった気がした。山や神域を訪れるということは、私にとって何かを得たいというよりは、何も得る必要がないということに気づくための行為でもあるんだ。必要なものは必要な時にやってくる。自分で生み出すのではない。その時その時に全身を傾けて声を聴けば、次のことは分かってくる。だから本当に必要なものがあるとすれば、声を聴く"静けさ"かもしれない。
 

 「随神門」に着く。そこから奥の院までは"神の領域"で、足を踏み入れると気温が下がるように空気がすっとする。冬のコートに身を包んだ参拝客とたくさんすれ違う。石段を上がって「奥の院」に参拝する。ここに対面して目を瞑ると、いつも吸い込まれるような感覚がある。「九頭龍社」にも参拝。おみくじを引いたら「吉」だった。「あなたには神がついているから安心していけ」と。大事にしまって次の場所へ向かう。
 

 「中社」までは信濃路自然歩道という昔の参拝道を通っていく。日が沈んでから戸隠山の上の空は、オレンジから紫色に変わっていった。「中社」は閉める準備をしていて、そこでちょうど5時の"遠き山に日は落ちて"のチャイムが鳴った。最後の「火之御子社」までは車道を行こうかとも思ったが、暗いにしてもヘッドランプをつけて歩道を行くことにした。
 

 民家のある一帯を抜けて、墓地の脇を通り、土のぬかるんだ林の道へ入る。その頃には空に太陽の気配はなくなっていて、辺りは闇だった。闇の中を歩くのは、登山の帰りなどで慣れているとは言え、やはり怖い。なぜ闇を怖いと思うんだろう。「火之御子社」にお参りしてからもそれについて考えて歩いた。ヘッドランプを消してみる。闇に身体を埋めるとその恐怖は消えた。あるものとないものを行き来することに関係がある気がした。でも完全な闇は、今までに幾度か体験したことがあるけれど、あれは本当に恐ろしい。光と闇のことは、まだよく分からない。
 

photo4 宝光社に到着
photo4:宝光社に到着

 「宝光社」へ到着。5時40分。出発から4時間あまりの旅。今回の参拝で戸隠の神様に何を教えてもらっただろう・・・"静けさの質"があるということ。"心の奥をしんと静かに、季節を迎えなさい"ということ。

 

 もうすぐそこに冬が来ている。

Back Namber