彫刻する人たち

古道具担当に彫刻展の案内が届いた。彫塑研究所の先輩、松田安佐生さんの遺作展だ。美術教師をしながら、東大阪から彫刻家・山本恪二氏の主宰する彫塑研究所(以下山本アトリエ)のある京都の東福寺まで、何十年も通って身の回りの人達をモデルに作っていたそうだ。彫刻を考え続けた目線と誠実さが結実した、よい作品展だったという。

古道具担当は若い頃、彫刻を勉強していた。高校卒業後、仏師になりたかったが叶わず、大学で社会福祉を勉強した後、より広く人間を考えたいと人体彫刻を目指す。しかし素人が学べるところはほぼなく、ダメもとで大阪彫刻家会議に問い合わせてみたら、山本アトリエを紹介してくれた。

山本先生は具象の人体彫刻家で、同期が佐藤忠良や舟越保武、先輩の柳原義達には「山本恪二さんの首」という作品がある(三重県立美術館蔵)。抽象でなければ彫刻でないと言われた時代に具象彫刻を一貫して作り続け、京都市立芸大などで教えながら、ご自分のアトリエを開放して指導をされていた。

彫刻経験がなく仏像が好きな古道具担当だったが、初めて描いた自画像と面接を経て入門、その後7年ほどアトリエで勉強を続けた。

松田さんの遺作展の受付には、やはり先輩のAさんがおられて話がはずんだそうだ。彫刻の話から彦根に所縁のあるAさんのご先祖のこと、近代開化と彦根や水戸の学問、近現代の流れの再考など…。それぞれに語りたいことがあり、話が尽きないという状況が目に浮かぶ。ずいぶん前にアトリエ関連の彫刻展に行った時も、Aさんと古道具担当は立ったまま1時間以上もハイスピードで骨董話の応酬を続けていた。

帰宅後ほどなくして、Aさんから彦根を訪ねたいという連絡があった。Aさんはご自分の問題意識と関わる土地を訪ねて、短歌を作っておられる。また、以前より自身のルーツを辿って彦根のお寺で話を聞くなどしていて、今回も一泊二日で各所を回るという。そしてスケジュールと関連資料が、次々に古道具担当のラインに送られてくるのだが、傍で見ていてもその熱量に驚く。ご先祖由縁の数軒のお寺訪問から、井伊直弼の供養塔、長野主膳やたか女、中川禄郎の墓所など…。後日奥様と共に市内各所を巡って取材を重ね、充分に彦根を満喫して帰られた。

それからまたしばらくして、今度は山本アトリエ展準備会の連絡があった。来春は山本先生のご逝去25年、生誕110年。記念の展示を行い、残された手稿を冊子にまとめるので、古道具担当も手稿の編集作業を手伝うことになった。

そしてまた、PDFファイルの資料がラインで一気に送られてくる。先生の残された手稿を、アトリエのBさんが整理。Bさんは仕事を終えた夜に先生の手稿と日々向かい合い、読みづらい部分や幾何学の論理と図なども解読して、14冊のノート・840ページにまとめたという。こちらもコピーが郵送で届いた。

スマホ操作ができない古道具担当に代わって、店番がPCに転送して印刷する(昭和世代はやっぱり紙)。大量のデータを調子のよくないプリンターで出していると、住民基本台帳を延々コピーしたしんどい事務仕事を思い出した。

それにしても、この度の労をいとわない彫刻の人たちのエネルギーに驚く。その熱意から、山本アトリエの方たちにとって先生と先生が開かれた場がいかに大切であったか、その経験が支えになっていることが伺える。すごいねぇ、と古道具担当に言うと、「山本アトリエでは、感覚だけで進むのではなく、理屈を自覚的に整理していくことを鍛えられた。ルーツを辿って足場を確かめたり、認識を深めていこうとするのは、具体的なものを作るという、彫刻をする人の性だと思う」という答えが返ってきた。

Aさん夫妻と夕食を共にした時、Aさんが昔作った作品写真をスマホで見せてくれた。それは30歳頃の古道具担当をモデルにした頭部の像だった。顔が似ている、ということでお互いに作り合い、それがきっかけでいろんな話をするようになったらしい。その写真は正面だけだったけれど、人間の前向きな気持ちを掘り起こすというか、心に力を湛えたすばらしい作品だなぁ、と思った。

目下、古道具担当は介護と道具の仕事の合間に少しずつ資料を読み進めている。デカいぬいぐるみのように横たわって読んでいる姿を見ていると、ずいぶん時間が経っているとはいえあの作品と同一人物とは思えない。しかし彫刻についてずっと考え続けて今に繋がっているし、古道具との関連から思うこともありすぎるほどあるだろう。山本先生の手稿から、どんな言葉が今の時代に大切なこととして残されるのだろうか。

彫刻する人たち

山本恪二没後20年に、アトリエのお弟子さんによって複製された、家族の像のレリーフ。
約18㎝四方と小さく静かだが、じっと見ていると背後に大きな世界があるのを感じる。