昨年末、半年ぶりに平安蚤の市の出店に同行した。久々にお会いした業者さんと話していたら、ふと「古道具って何なんでしょうね」と問われた。露店でも実店舗でも、すてきな空間にセンス良く道具を合わせている方なので、少し意外だった。だから自分の思うことなどすぐには言えず(そもそもが単なる店番なので)、気の利いた言葉も出ずに、「んー、何なんでしょうねぇ」と間の抜けた返答をしてしまった。
それからしばらくして、別の方からコレクションを見せてもらう機会があった。海辺の漂着物を以前から集めているのは知っていたが、机の上には不思議なモノが沢山並んでいる。ちぎれたプラスティックの容器、高台だけのお椀、外身だけのカセットテープ、おもちゃの一部と思われる細い車軸についた小さなタイヤ、ポップな色だけどよくわからないピラピラしたリボンみたいな束、 他にも形容しがたいものが幾つも。
古道具担当は嬉々として見ているが、こちらは物量に気おされている。先だって行われた鈴木隆さんと私の二人展のテーマも「漂着」だったのだが……。心の距離を取りつつ見続けていると、何と私が展示の時に使っているものと同じ、小さな水平器がある! 波に揉まれて角が丸くなって、色が褪せて、パッと見水平器とはわからない。身近なものが見つかって、親近感が出る。
拾い物コレクションをしている人は独自基準を持っている。錆が好きという知人は、色、大きさ(または小ささ)、状況など細かくこだわる。好みの錆モノなら買ったりもするかと聞くと、”拾い物”でなければならないそうだ。いろんなものがあって面白いけれど、それだけではない、その印象をうまく言葉で表すことができない。元々は浜に打ち上げられたゴミであっても、ここに置かれていることで、少なくともゴミではない、違うモノになっている、ように思う。波に洗われ形が変わり、用途も剥奪され、摩耗して質感も変わって、ただ眺めるだけのモノになった漂着物たちが、何だかじわじわ来る。集めた人の一部分というか、とにかく不思議な存在感がある。
漂着物たちを眺めながら、浜辺をイメージしてみる。風が吹いて波が立つ。海が広い。探しながら砂の上を歩く。すると自分が小さくなったように感じられて、自分とモノとこの部屋の空間がまるごと漂流しているような気になる。自分の意思や考えで日々勝手に動いているようで、実はあちこちぶつかりながら空間を漂っているだけなんではないかとさえ思う。
それにしても、この感じはどこかで見たような……としばらく考えたら、それは古道具ニコニコ堂店主・長嶋さんの作ったアルミ星人だった。そう! あの不思議な人形(「東京の道具屋さん行脚」参照)。そういえば、持ち主は宇宙好きでもある。ゴミ、または、屑、塵、芥……星だって塵が固まって出来たものだというし、そうすると漂流物は星で、拾うことは自分の天体を作ることなのかなぁ。ゴミはがらくたと言われることもあるし、漂流物と古道具は等価ということなのか?
うまく伝える言葉はまだ見つからないけれど、ゆっくり見ることで、こちらが取り込まれた気分になったり、気付かなかった持ち主の一面を垣間見たりと、感覚のキャパを少し拡げてもらったような気になったのだった。
