津軽スケッチ

ぼくが生まれ育った町は津軽平野のどまんなかにある。リンゴの主力品種「ふじ」発祥の地で大生産地で、家の周囲には広大なリンゴ園が広がり、その向こうには見渡す限りの田園。岩木川と平川が並行するように流れ、目の前に秀麗な岩木山、背後に八甲田連峰が鎮座する。津軽平野を象徴する風景だ。しかし、モノカルチャーな農業で支えられたこの土地の風土は、生物の多様性とは縁遠い。子どもの頃の夏場の遊びの一大イベントといえば、子ども会のネプタ以外は、どこかの農家が用水路に流した農薬でぷかぷか浮いて流れる鮒を大量に掬い取ることや、農薬散布する無人ヘリを見物しに行くことだった。衣類や皮膚が真っ白になるくらい農薬まみれになりながら、最初のうちは熱中していた昆虫採取も、そんな生息環境下だからなのか、種類がきわめて少なく、しばらくすると退屈になった。

祖父の代で田畑を手放し、サラリーマン家庭に生まれたぼくが、京都の中山間地できれいな沢の水を引き、土を耕し、時々フィールドワークをしているのは、母の出身地の環境に依る。

母の実家は、清流が村の中心を流れる出湯の里で、家は給油所の経営の傍ら米をつくりリンゴを栽培していた。週末、母が、給油所の手伝いをしている間、ぼくは農作業をする祖父母についてゆく。山間の大きな機械が入れない傾斜のきついリンゴ畑へ行き、仕事を手伝った。湧き出る清水で喉を潤し周辺の森で昆虫採取や植物の観察に勤しんだりもした。夕方、平野には生息しないヒグラシの鳴声を飽きるだけ聴いて、夜は給油所の灯に集まる夥しい数と種類の昆虫が飛び廻る様を飽きるだけ眺める。翌朝、飲み物と前日捥いだばかりの早稲種のリンゴを持って、祖父の農園の先にある分水嶺を目指した。マムシに遭遇しながら一人で森を散策し見たことのない山野草をみつけるたびに立ち止まる。途中、リンゴをかじる。寒暖差が激しい山の畑のリンゴは、平地のリンゴと違って小ぶりだが、酸味があって硬く締まって歯応えが良い。これがぼくの子どもの頃の感性を潤し、好奇心を満たしてくれた祖父のリンゴの味だった。

最後に祖父のリンゴ園を訪れたのは、大学を卒業して2年目の冬だった。もう一度、芸大で学ぶ学費を捻出するために、出稼ぎ労働者と寝食をともにしながら夜は働き、昼間はデッサンの教室に通っていたときだ。自分の将来に不安の方が強かった。その不安を打ち消すために、祖父の農園にある老いたリンゴの樹をスケッチしに帰郷した。リンゴ畑は大雪で、絵の具が塗った先から凍る寒さの中、2時間かけてじっくり筆をうごかした。凍えそうになりながら家に戻り、いっぱしの芸術家にでもなったつもりで、祖父に画帳を見せるとえらく喜んだ。

祖父はコロナ禍の中、去年95歳でひっそりと亡くなった。リンゴ畑は山間地の傾斜のきつい不便さから後を継ぐものもなく、とうの昔に売りに出された。長年、慈しんで育てた表土は剥ぎ取られ、杉が植えられたという。もはや在りし日の風景の痕跡は、唯一ぼくが描いたスケッチだけになってしまった。

生産効率を優先させなければ農業として成り立たない。でも、それだけでは農業の将来に明るい展望は見出せないだろう。祖父のリンゴ園を描いたスケッチを眺め、自分を振り返るたびにそう思う。

 

津軽スケッチ

画・新谷太一 (1998)