糸瓜群虫図

今年の夏は地獄のような暑さだった。

6月後半から続いた猛暑で、作業の全てが狂ってしまった。万願寺とうがらしも千両なすも、伸長する枝の仕立てが出来なくて病気と虫でやられてしまった。9月には野菜の端境期にはいって窮屈な経営を強いられるのがわかっているのに、とにかく猛烈な暑さで何もできない。これだけ追い詰められてくるとついつい、なんで農業なんかやっているのか、なんてネガティブな思考に陥ってしまう。

万願寺とうがらし 千両なす

環境のため? いやいや、有機農業でも堆肥で汚染する可能性もあるし、そもそも軽トラで宅配している時点で、二酸化炭素は排出しまくっているし……。
健康のため? 必ずしも有機栽培が栄養価の高い野菜を供給できるか、正直わからないところもある。だいたい、炎天下で働いて自分は熱中症になっているし……。
平和のため? 子どもたちのため? いやいや、日々の生活を維持するだけで精一杯だ。

長女が3歳の頃、島根県で開催された保育士と保護者が集う合研集会で、こんな石碑の存在を知った。

「この鉄砲が牛蒡であったらナー とにかく兵隊よりも野菜作りの方がよいヨ 戦地よりの手紙 景山龍一1938年5月2日 中国山東省にて戦死 21歳」

平和を願う象徴として紹介されたこの碑文を読んだ時、ぼくは胸を抉られるような気持ちになった。
だけど、農家として少し冷静になって考えた。頭に浮かんだのはハーバー・ボッシュ法だ。近代になって急激に増加する人口を支えることができたのは、この方法であたかも錬金術のように無尽蔵に作られた窒素化学肥料が、穀物の大量生産を可能にしたからだ。同時に、それは化学式を応用して大量殺戮をするための爆薬としても使われてきた。除草剤も、ぼくらが使っているトラクターも然り、元は戦争のために開発された道具だ。農業と戦争は、常に密接な関わりをもって現在に至る。
つまり、ぼくがいくら反戦を訴えても、生業そのものが自分達の認識しないところで、世界のどこかの戦争を引き起こす原因の片棒を担ぎ、そして影響を受ける。自然の摂理を超えた生産活動の先には、どうやら専らヒトの争いしかないらしい。だからぼくにはこの碑文がどうしても、人を殺戮する凄惨な場を目の当たりにしないだけ、戦争よりも農業の方がマシだよと読み取れてしまう。

9月。今年二度目の熱中症になって、身体がすこぶるだるい。宅配のない日曜日、3歳の息子を自転車に乗せて、細見美術館にある一枚の画に会いにいった。
若冲の『糸瓜群虫図』。学生の頃からこの画は涼を感じさせてくれる。地の在来種だろうか、細長い形の実をつけたヘチマの葉は、綺麗に円形の虫喰いが残されている。まるで赤ちゃんの手が宙を握るような弦を辿っていくと、蟷螂(カマキリ)、蝶(チョウ)、螽斯(キリギリス)、蜻蛉(カゲロウ)、蝸牛(カタツムリ)、精霊蝗(ショウリョウバッタ)……など11種。これだけの虫がいてもヘチマは旺盛に実をつける。若冲の観察眼は瑞々しい。生命の一つ一つに行き渡る空気の揺らぎをも描いたかのような余白が、なんとも爽涼だ。捕食するものと捕食されるものとの絶妙な生存のバランスが、一幅の画の中に描かれた糸瓜を軸に、森羅万象のほんの一片としてさり気なく、いきいきと表現されている。

糸瓜群虫図

日曜日の昼下がり、美術館での息子と二人だけの時間。画に涼しさを求めるつもりが、思いがけず生命と自然の調和を見つけたような気がした。それはきっとぼくが農に求めている世界観だ。ウダウダと逡巡する思考が束の間、霧散した。